『serial experiments lain』 考察メモ(2) レインと玲音

 

 

 前回は、英利の計画まわりの話をしました。今回は、予告通り、今回は「玲音とレイン」について考えます。その際、12話の英利と玲音の会話についても考えてみます。

 

レインに関する情報の整理

 説明の都合上、レインの方を先に考えます。まず、彼女に関する作中の情報を整理するところから始めましょう。
 
 レインが初めて登場するのは2話の冒頭です。アクセラの少年がサイベリアで彼女を目撃したシーンです。同じ日に、ありすたちも玲音とよく似た少女を目にしていることから、その日その場所に彼女がいたことは間違いないでしょう。
 
 しかし、玲音にはそんなところに行った記憶は一切ありません。2話以降でも、特にサイベリアを中心として、タロウやJJなどが彼女を目撃しているような描写がありますが、やはりこれも玲音の記憶とは合致しません。
 
 この、まるで玲音が分身したかのような奇妙な現象のトリックは9話のレインとタロウとの会話で説明されます。
 
 

レイン「ワイヤードの中に、あたしがもう一人いるかどうか、それはあたしにもわからない。でも、このリアルワールドにあたしがもう一人居るなんてことは絶対にない」
レイン「肉体を持つもう一人が姿を見せたのはあのクラブだけ。あそこにいた人の記憶だけを操作すればいいんだよね」

タロウ「俺じゃないよ。でも、JJのとこに流されてくるデータに、こういうイフェクトがあるっていうのは、知ってた」(9話)

 


 直接根拠となる台詞を引用するのは難しいのですが、この場面周辺の流れを丁寧に整理すれば、玲音とレインが同時に存在していた原因はサイベリアの音楽にあるとわかります。サイベリアの音楽には特殊な「イフェクト」があり(たとえばレインの幻覚を見せるといった)、それが、彼女が同時に存在することを可能にしていたということです。つまり、このレインは作り物だということです。
 
 では、レインをそういった小道具によって作られた幻覚だとみなせば作中の出来事全てを説明できるのでしょうか? もちろんそんなことはありません。
 
 私たちはさまざまな場面で、「レイン」がワイヤード上での玲音のアバターのように用いられているのを見ています。6話でホジスン教授と話すのも、7話で橘総研の男と話すのも、8話で「神」と話すのも、9話でタロウを追い詰めるのも、10話で英利と対峙するのも、「レイン」です。ここでの「レイン」の行動は「玲音」のそれと一致しており、「レイン」は「玲音」の別人格のように描かれます。この「レイン」が、さっきのサイベリアでの「レイン」とは異なる(物理的な)原理で生み出されているのは明らかでしょう。

 


レインの存在論的定位

 とすると、私たちはこの2人のレインを分けて考えるべきなのでしょうか? つまり、例えばレイン1とレイン2に分けて考えるべきなのでしょうか?
 
 その考え自体を間違いだと切り捨てる根拠はないと思います。いま確認したように、作中ではこの2人の存在の依って立つ基盤は異なっているわけで、2人が全く別種の存在だという主張には理はあります。
 
 しかし、やはり、この異なって見える二つの存在を全く同じ外貌で(あるいは全く同じ「レイン」という名前で)描いた製作者の意図を汲むべきだと私は考えます。つまり、この2種類の異なって見えるレインを同じものだとして解釈するべきだということです。
 
 実際、それは不可能な解釈ではありません。さっきさり気なく括弧に入れて書きましたが、レインが2種類いるように見えるのは、私達がそれを「物理的」な観点から見たからです。「レインは2人いる」という判断を下した時、私たちは無意識に人間や人格と言ったものを物理的実体と同一視しました。それゆえ、私たちは「物理的には音楽という現象で生み出された実体を持たない仮象」と「岩倉玲音の肉体に宿った意識の1人格」を区別しなければならなかったのです。
 
 しかし、物理的な限界を超越しようという計画を立てるキャラクターが登場する作品で、そんな「物理的原理」を絶対のものだとみなす理由なんてどこにもありません。もし私達が、上に述べたのとは違った新しい人格の定義、すなわち、レインの存在原理(存在論的定位)を適切に決め、本来分裂するはずだった彼女を1つの存在として扱うことを可能にしたなら、その試みは間違いだとはいえないし、もしそれでこの作品についてより多くのことを説明できるのなら、正しい選択だとさえ言えるでしょう。

 

 では、そんな解釈を可能とする「存在原理」とは一体どんなものでしょうか?

 

 この選択にも自由度があります。メタな話をするなら、私たちはすでにその1つを無意識に使っています。私達が玲音とレインを区別できているのは、彼女の態度や演技が明らかに異なっているからです。つまり、私たちは「外見や態度や表情が異なるならそれは別の人間」という原理をもとに彼女たちを区別しているわけです。これも立派な、「レインを1つの存在として捉える」原理であるといえます。今はメタな話をしましたが、この2人の作中での態度の違いはタロウなどにも指摘されているので、この原理を作中の現象に適用する合理性もなくはありません。
 
 とはいえ、こんな見方で満足するわけにはいけません。私たちが求めているのは単にこの条件を満たす解釈ではなく、作中に根拠も一応はあり、それでいてこの作品について多くを語ってくれるような本質をつく解釈です。
 
 その意味では、最も「正解」に近いのは次のような解釈なのかもしれません。
 

玲音「人は人の記憶の中でしか実体なんてない。だからいろんなあたしがいたの。あたしがいっぱいいたんじゃなくて、色んな人の中のあたしがいただけ」(12話)


 要するに、レインを1つの存在たらしめるのは、「人間の実体を記憶だとみなす」という原理だという解釈です。つまり、他人の記憶と一致するか否かがレインをレインだとみなす判断基準だということです。人間を人間とみなす原理がこのようなものだとすれば、別にレインが複数いても問題ないということになり、逆説的ですが、これは複数いるレインを1つのものとして統合することを可能にします。「記憶」というのは『lain』のキーワードの1つであることからも、納得のいくものだと思います。
 
 しかし、私はここでもう一つの解釈をとろうと思います。それは次のような説です。

 

玲音「あたしは何もしないよ。あっちと、こっち側と、どっちが本物とかじゃなく、あたしはいたの。あたしの存在自体が、ワイヤードとリアルワールドの領域を崩すプログラムだったの」(12話)


 要するに、それが「リアルワールドとワイヤードの境界を壊すプログラム」である限りにおいて、レインはレインである、ということです。とはいえ、「プログラム」と言われても何のことだかわからないので、簡単に言い換えておきましょう。「プログラム」というものは、結局のところ何かの目的を達成するために作るもののことなので、この概念の本質は「目的性」です。この言い換えを用いると、レインがレインであることを識別する原理とは、「それが同一の目的を持っているか否か」になります。
 
 この説も、複数いるレインが1つの存在である説明を与えます。多少飛躍はありますが、この説の言っていることは、それぞれの存在はその生存する目的があり、その目的を達成する行動を取る限りにおいてその存在だとみなされるということです。だから、それが「ワイヤードとリアルワールドの壁を破壊する」という目的を満たすために行動しているのならば、その物理的基盤が幻覚であろうとある個人の肉体であろうと、それは「レイン」だとみなされます。また、さらに言えば、もともとは別の存在だったはずのある個人に対してそういう「目的」を植え込むことで、その人の中にある存在を「インストール」することができるわけです。つまり、この存在はその物理的基盤を移し替えていくことができます。これが、私が出したもう一つの解釈です。


(もちろん、「目的」を狭い意味に捉える必要はありません。誤解のない範囲内では、「存在理由」や「生きる意味」みたいに捉えて大丈夫です)
 

 さっきも書いた通り、この、「記憶」と「目的」の二つの解釈でどちらがより正しい(この作品で直接言われたことに則している)かときかれたら、私は最初に挙げた、「記憶」解釈のほうが正しいと答えます。それでも私が2番目の解釈を取ろうと思うの理由は次のとおりです。

  • この作品に「記憶」という側面からアプローチする方法は不必要に大きな困難に立ち向かわなけれならないから。(この理由は、いままで私がこの作品の最重要要素である「記憶」にほとんど触れなかったことにも関係あります。余裕があれば詳細を記事にまとめようと思います)
  • 結局のところこの二つの見方はそれほど大きく変わるものではなく、後者の解釈を取ると多少の齟齬はでるものの、それらはあまり本質的ではない上に、こちらの解釈をとるほうが遥かに見通しがいいから
  • 2とほとんど同じだが、この「記憶」という見方は最終話で否定されるから

 


 この3つの理由に対する根拠は今の段階では与えられませんが、おそらくは説明を進めるうちにわかっていただけると思います。なので、納得できない方がいるかもしれませんが、後者の説で進めていきます。

(もしかすると、引用した箇所がレインではなく玲音に関係するものだということが気になっている方がいるかもしれませんが、これも後で説明します。簡単に言うと、この当時の英利も玲音も、実は玲音とレインの違いを理解していないのです)


英利ふたたび

 前節では、レインの存在論的定位について確認しました。得た結論は、レインとはある目的を持った存在であり、そうである限りにおいてレインである、ということでした。レインをレインたらしめる存在原理は、「それが同一の目的を持っていること」でした。

 実は、この存在原理を用いて解釈できる(正確に言うなら、この存在原理を用いなければ1人の人間とみなすことができない)キャラクターがもう一人います。もちろん、英利政美です。それは、以下のことを確認すれば十分でしょう。

  • 作中で登場する英利はプロトコルに組み込まれた「プログラム」である
  • 英利は遍在している。原理上彼が常識的な意味で「1人」である保証はどこにもない。

 では、彼の「目的」とは何でしょうか? 作中で特に明確に語られているわけでもなく、そもそも「目的」という概念自体私が勝手に導入したものなのでしっくり来るかどうかはわかりませんが、「人類の進化」とでもしておけば特に問題はないでしょう。

 

英利は何を間違えたのか

 さて、以上の準備を元に12話の後半の玲音と英利の会話を読み解いていきましょう。その上で、彼が何を間違えた(もう明白だと思いますが)のか考えていきます。これが「玲音」を理解する鍵になります。

 長くなりますが引用します。(ありすの言葉はカットしました)

玲音「あなたができたことは、ワイヤードからデバイスを解放すること。電話とか、テレビとか、ネットワークとか、そういうものがなくちゃあなたは何もできなかった」
英利「そうさ。それは人間の進化に伴って生まれたものじゃないか。最も進化した人間はそれに、より高い機能を持たせる権利がある」
玲音「その権利、誰がくれたの?」
英利「ーー」
玲音「(中略)集合的無意識を意識へと転移させるプログラム。本当にあなたが考え出したことなの?」
英利「何を言いたいのだ。まさか、まさか本当に神がいるなどと」
玲音「どっちにしろ、肉体を失ったあなたにはもうわからないこと」
英利「(中略)僕が君をこのリアルワールドに肉体化させてあげたんだぞ! ワイヤードに遍在していた君に、自我を与え、それに」
玲音「あたしがそうだとしたら、あなたは?」
(中略)
玲音「あなたは確かにワイヤードでは神様だった。じゃあ、ワイヤードができる前は? あなたは、ワイヤードが今のようにできるまで待っていた、誰かさんの代理の神様」

(12話)

 

 結論から言ってしまえば、ここでされている話は至極あたりまえの議論で、要約すると、「手段/目的という連関で人間存在を定義してしまったため、英利は自分自身が何か高次の目的のための手段であることを否定できなくなってしまった」ということです。具体的には、英利は「集合的無意識を意識へと転移させるプログラム」=「レイン」を作りましたが、彼自身も何か上位の存在によってプログラムされたものであるということを否定できないということです。

 問題はなぜこれらの事実が英利にとって致命的なのか、です。これは以下の2点にまとめるられます。

 

  • 彼の目的は、人類を進化させることで、それは具体的には、人間が何か上位の存在によって規定されているという現状(最大のものは「唯物論の言葉」)を打開しようとすることを意味する。彼は確かに、「唯物論」すなわち物理的拘束からは自由になれた。しかし、その際に彼は「プログラムとしての人間」、すなわち、「目的によって規定される人間」という概念を使用してしまった。なので、結局、彼は何かに規定されてあるという人間の状態を乗り越えることができなかった。

  • 上の点は基本的に地球上の誰もに対して当てはまるので、決定的な批判とはなりえない。英利にとって更に問題だったのは、彼が肉体をすでに捨ててしまっていたこと。彼は、人間が目的論的な存在であるということを決めてかかり、完全にそういうものに自分を置き換えてしまった。だから、彼は間違いに気がついてもやり直すことができない。

 注意してほしいのは二番目の理由です。これは、直接には上の「肉体を失ったあなたにはもうわからないこと」という言葉の説明になりますが、この批判が彼にとって決定的な意味を持ち得た理由は、単に「肉体を失っ」てしまったからではなく、その際に自分をプログラムにしてしまったからです。

 この微妙なニュアンスの違いは非常に重要です。この考察記事がこんなに長くなっているのはこの微かな差にあると言っても過言ではありません。
 
 彼は実のところほとんど間違えていなかったのです。「肉体が人間の進化を留めている」=「人間は肉体を超える事ができる」=「人間にとって肉体は本質的なものではない」という主張自体は別に間違っていませんでした。その端的な証拠が「玲音」の存在です。次回説明しますが、肉体を与えられたことで生まれたにも関わらず、彼女に肉体は必要ありませんでした。なので、この12話の場面は、「ワイヤードと肉体」という対立軸を立てて肉体の方に軍配を挙げるようなものではなく、すでに「肉体」という旗は下げられている前提で、しかし「ワイヤード」の方も間違っているというシーンなのです。
 
 英利に間違っていたところがあるとすれば、自分自身にとって本質的な部分がすべて目的論的に記述できるということを信じきれなかったということです。これは正しい正しくないではなく信念の問題であって、だから、英利の提唱している説自体は何も間違っていません。ただ、そこには英利が英利だと信じる英利が含まれていなかったというだけのことです。
 (もちろん、普通の人はそれでも英利に共感できるだろうと思うので、その限りで彼が間違っていたということは可能です)


玲音とは?

 上で英利について書いたことをそのまま岩倉玲音に対して当てはめると「玲音」の存在が浮かび上がってきます。
 
 英利は自分を完全にプログラム化できると考えていましたが、そうしきれない残余が英利政美という存在の中にはあったということに12話後半で気がつきます。同様に、岩倉玲音という存在も、「ワイヤードとリアルワールドの境界を壊すためのプログラム」と定められましたが、そこにはこの目的に還元しきれないような残余がありました。これが「玲音」です。

 具体的には、中学生で、内向的で、ありすの友達で……といった存在です。しかし、よく考えてみるともう少し複雑です。

 再び英利の場合を考えてみましょう。英利は12話後半で上に書いたような事に気が付き、暴れますが、実はこの英利でさえプログラムなのです。つまり、この英利は英利ではなくエイリだということになります。同じことはやはり玲音にも言うことができて、それを「レイン」と名付けるかどうかはともかく、今挙げたような「玲音」の諸特徴をすべて「レイン」の側にもたせること、プログラムとして記述してしまうことは可能です。

 しかし、全てをレインに還元し切ることはできません。では、最後に残るものとは? それは、「玲音」が「玲音」にとって存在しているということ、今この記事を読んでいる人が自分で自分の存在を疑うことができないほど確かなものと考えているのと同じ意味で、「玲音」が「玲音」にとって存在しているということです。
 それは、この物語の主人公が「玲音」であったことを意味します。この物語は全てが「玲音」という少女の主観で綴られた1人称視点の物語だと言うことができ、それゆえに、視点である彼女の存在を私たちは疑うことはできません。彼女の存在は、私達の人生にとって私達が前提であるのと同じ意味で、この物語の前提なのです。
 
 しかし、あらゆる性質は与えられた瞬間に彼女から奪い去ることができます。その意味では、この物語の進行には「玲音」の存在を一切必要としません。

 何も持っていないはずなのに、「存在」だけはしている彼女。物語には何もかかわらないはずなのに、彼女がいなければ何も始まらない存在。絶大な力とリンクしていながら、あくまで平凡な女子中学生としての精神構造しか持っていない少女。だからこそ、彼女はこんな問題提起をしつづけます。

 

「あたしって誰?」(13話)

 

 次回は、この問が『lain』という作品に対して持っている重要性を確認した上で、「玲音」がこの問題に対してどういう答えを出したのかについて、13話を題材に可能な限り考えていきたいと思います。

 

 


補足1


 玲音、レイン、英利の考え方が最も如実に現れているのが10話次の場面です。絶対にどこかで使いたかったのですが、タイミングがなかったのでここに置くことにします。(私はこのシーンを『lain』の作中で3本の指に入るくらい重要なシーンだと考えています)

玲音「もう一人の……」
英利「え?」
玲音「もう一人のあたしが……」
英利「もう一人じゃない。本当の君さ」
レイン「どっちでもいいよそんなの」
(10話)

 

補足2:本作での「記憶」概念について