萵苣猫雑記

tayamaの雑記

『serial experiments lain』 考察メモ(3)後編 13話を考える

 

 この記事が最後の記事になります。

 

 前回はこの作品を考察するとはどういうことかを考えることからはじめました。得られた結論は、この作品を考察するためには少なくとも「玲音はどこにいるのか? 何か?」という13話冒頭で提示された問に答えられなければならない、というものでした。そして、私はこの問を理解することをこの考察記事の問題設定としました。

 この問が開かれているのは、「こっちーそっち」という場所概念によって観念されるような地平です。そして、この問の答えは、「私はここにいる」でした。なので私達は、「こっちーそっち」というのがどこを、何を指しているのかを答えることができれば、目標を達成できることになります。

 この問(「こっちーそっち」とは何か)に誰もが疑い得ない絶対の解釈を与えることができるような絶対の根拠は作品中には見つかりません。結局のところ、「えいや」で答えを与えるしかないのですが、そのためには作中で語られた論点を可能な限り拾うべきでしょう。

 ということで、今回は13話本編を読み解いていくことから始めましょう。。

 


Aパート


 Aパートには理解が難しい場面は特にありませんが、後々のために一つだけ問題提起をしておきます。

 Bパートでれいんが言うように、13話で玲音は自分の存在(記憶)を消します。ここで素朴な疑問なのですが、どうして玲音はここまでしたのでしょうか?

 彼女がその決断をするのは、英利の姿を見て頭がおかしくなったありすを見たからです。でも、9話でやった通り、その記憶を消して過去からやり直しても良かったのではないでしょうか? 実際、れいんは玲音に、「もう一度はじめからやり直す」ことを提案しますが、玲音はそれに同意しません。それなのに、玲音はちっとも嬉しそうに見えません。これはいったいどういうわけなのでしょう。

 

 

玲音とれいんの会話

 Aパートの話はそれくらいにして、Bパートに移りましょう。まずは玲音とれいんの会話からです。

 この会話は大いに見るべきところがあるように思えますが、あらかた前回までで語り尽くせたように思えるので、次の二点についてだけ述べます。「ワイヤードがどこにつながっていたか」という点に関しては、非常に重要であると思えるものの、本作の記憶概念に強く根ざした議論なのでここでは扱わず、余裕があれば前々回の記事に追記しておきます。


玲音ははたして肉体を必要とするのか?

 これは、このシーンの解釈というよりは、ここまで続けてきた考察の前提を確認する作業です。

 今まで私は何度か、「この作品はワイヤードvs物理世界(あえてリアルワールドとは言いません)という対立を考えた上で物理世界を上位だとみなすようなものではない」という趣旨の発言をしたと思います。

 私がこの立場を取る最大の根拠がこの場面です。はたして、この場面の玲音は肉体を持っているように見えるでしょうか?

 このシーンで玲音とれいんは自由気ままにさまざまな場所を渡り歩きます。当然、常識的に考えれば肉体を持っている存在がこんなことをできるわけがありません。他にも、本作で玲音の肉体性が最も強調された場面は12話のありすとの会話ですが、玲音以外の存在がいない世界である以上、他者と物理的に触れ合う事ができないので、この側面からこのシーンでの玲音の肉体の有無を捉えるのはそもそも意味がありません。他に、肉体の役割を「自分がここにいるということを知るため」だと言っていた箇所が何処かにあったような気がするのですが、そういう意味での肉体なら英利(エイリ)だって持っていたわけです。

 結局、肉体というのは、他者とのふれあいとか、疲れとか、死とか、有限性とかそういう観念と組み合わさって初めて常識的な比喩として適切に解釈できるものです。だから、そのいずれとも結びつかないものをわざわざ肉体と呼ぶ努力をする必要はないでしょう。

 以上のように考えて、私は玲音は肉体とは関係ない、より正確に言えば、その本質を肉体に持たず、別に肉体がなくなっても存続できる存在だと考えました。なので、繰り返しになりますが、本作で何回も言われた、「肉体は無意味」という言葉は殆ど間違っていません。問題なのは、それを主張する人たちがそれぞれ思い思いに立てた「無意味じゃないもの」がことごとく間違っていたということなのです。

 

 

「れいん」とは何か

 このシーンで玲音の会話相手となる存在は便宜上「れいん」と呼ばれます。世間一般では、ワイヤードの女神とも見なされます。

 前々回に、「レイン」は岩倉玲音を「目的」という観点から見た存在だということを述べました。前回、一見してレインに与えられる特徴を無視してまで私がそのように解釈した理由について述べました。それは、私たちは13話の問が発された時点から物語を解釈しなければならないという理由でした。その観点から言えば、「レイン」を岩倉玲音にとって本質的な存在だとか、彼女のあるべき姿だとか解釈しても問題ないという話もしました。

 「れいん」の存在は、基本的にはこの系譜に連なるもので、言ってしまえば岩倉玲音のあるべき姿、本質です。

 「レイン」は結局のところ英利が(ナイツなどを経由して)作り上げた存在で、ワイヤードとリアルワールドを破壊するプログラムでした。その限りで、「レイン」は英利が使用する「道具」だと考えてしまってもいい存在なわけです。その意味では、玲音がこれまで感じてきた苦痛は、英利が「レイン」という道具を使って行った嫌がらせによるものだという解釈だってありうるわけです。

 さて、12話で玲音は英利の矛盾を指摘し、彼は自滅します。彼女に嫌がらせをする存在はいなくなったわけですが、「レイン」の存在がいたことで彼女に引き起こされた問題はそれで解決したのでしょうか? 答えはもちろんNOです。その過程で彼女は人類の集合的無意識が意識へと転化されたものだということ、が明らかになったことで、やはり玲音は「彼女のように見えるのに玲音にとっては自分が彼女だとは到底思えない存在」と自分とがどう違うのかについて悩まされます。そして13話冒頭の問に繋がるわけです。

 このような背景の下で現れた、玲音に対する対立項こそ「れいん」です。岩倉玲音は人類の意識全てとつながっており、それらを自由に操作できる。そんな絶大な力を持った彼女の本質をなんと名指せばいいのか? 答えはもちろん、「神」です。岩倉玲音が英利政美が作ったとおりの、「ワイヤードとリアルワールドの境界を破壊するプログラム」だったのかどうかは(英利ですら誰かに操られていたかもしれないことがわかっている)今となっては定かではないですが、彼女が神と呼ばれるに値する実行力を持っていることは疑いえません。それを象徴化したのが「れいん」という存在です。
(作品上の役割からすると、「レイン」と「れいん」は同じ存在だと言ってしまって問題ありません。要は「レイン」という現実で玲音が出会った存在から、玲音の存在を考える上で不必要な部分(英利など)を抜き出して純化した存在が「れいん」です。さらにパラフレーズするなら、13話の問が発された時点で振り返ったときに、かつてレインであった存在がそうなっていたものが「れいん」です。このあたり、私の前の記事は錯綜していて、本来は「れいん」に任せるべき役割を「レイン」にもたせてしまっていたりします。すみません。)


 では、彼女との会話で玲音はどのような結論を下したかというと、それは見て分かる通り、「彼女は私ではない」です。しかし繰り返しになりますが、英利の場合とは違って、彼女が神に値する存在であることは疑いようがありません。「玲音」は「レイン」ではないかもしれませんが、「れいん」であることは間違いないのです。

 その事実を端的に、皮肉を交えて示すのが2人の会話の結末です。玲音は自分が神であるという解釈を、ワイヤードの神と同格の存在である「れいん」を消し去るという方法で拒否します。自分が神であることを否定しながら神と同格である存在を気に食わないからという理由で消し去る存在。そんな存在に対して、れいんが去り際に

「じゃあ、あなたは何なのよ? 玲音」(13話)

 と問うのは至極もっともに思えます。

 

 

玲音と康男の会話 分析の準備

 今まで見てきた通り、ここまでで為されたのは問の確認で、新しいことはありません。というより、私は13話の冒頭の問が発された正確なタイミングは玲音がれいんを消した瞬間だとするのが適切だと考えています。実際、そこでは冒頭で述べられた問が繰り返されます。

 というわけでこの問の解決は、玲音と康男(玲音の父)の会話の場面で為されると思われます。特に深く考えずに見ても、重要な場面はここだと直感的にわかるでしょう。

 以下に引用します。

 

(玲音、フードを脱ぐ)
康男「玲音。もういいんだよ、そんなものを被らなくても」
玲音「お父さん、知ってる?」
康男「なんだい?」
玲音「私、みんなが……」
康男「好きだって?」
康男「違うのかい?」
(玲音、泣き出す)
康男「玲音、今度美味しい紅茶を用意しよう。そうだ、マドレーヌも……きっとだ。おいしいよ」

 

 この場面を解釈するにあたって、まず、この場面に非常によく似た次の場面に注目することから始めましょう。

 

 (カール(黒服)、レンズアイを外す)
カール「私達には、あなたが何なのか、未だに理解できていない」
カール「しかし、私は貴方が好きだ」
カール「不思議な感情ですね。愛というのは」
(10話)

 

 玲音は、フードを脱いでみんなが好きだったと言おうとしました。一方、カールは、レンズアイを外して貴方が好きだと言いました。形の上では2人の行動の類似は明らかに思えます。

 しかし、「何故カールなのか?」という疑問も当然湧いてきます。彼は重要なキャラクターですが、13話の一番重要な場面で鍵を握る人物であるとは到底思えません。

 この疑問は、10話「LOVE」の内容を思い出せばすぐに解決できます。この回にはもう一人、何かを外しはしなかったもののカールと同じく彼女に愛の告白をした人間がいました。後で必要になるので周辺部分も含めて抜き出します。

 

康男「これでお別れです。玲音さん」
康男「もうご存知になったんでしょう? 私達の役目は終わったんです。短い間でしたが、大したお世話もできず」
康男「あなたはこれからどうしようと自由です。いや、最初からあなたは自由だったんだ」
康男「お別れを言う許可は得ていないのですが、私はあなたが好きだった」
康男「別に家族ごっこが楽しかったわけじゃあない。あなたという存在が、私には羨ましかったのかもしれません。じゃ」

(10話)

 

 相手がカールなら役不足ですが、康男だったら何の問題もありません。13話で話しているのも康男と玲音だからです。

 さて、カールを経由して、13話のシーンと10話のシーンを繋げることができました。10話の会話には「フードを脱ぐ」に相当する物がありませんが、これは容易に想像がつきます。カールがレンズアイを外した意図を、「本音を言うため」、「自分の役割とは矛盾する言葉を言うため」だと想像するのは自然です。とすれば、康男の場合、「父という役割を外れる」、「偽物ではなく本当の関係で話す」ということが、「フードを脱ぐ」ことに相当していると考えていいでしょう。

 このシーンの分析にとりかかるまえに、もう一本だけ補助線を引いておきます。10話にはもうひとり、彼女に告白する人間がいました。しかし、彼の行動は他の2人とは大きく異なっており、2人の「愛」とは何であるのかを定めるための参照軸として有用です。

 

英利「かわいそうな玲音。もう一人ぼっち。でも僕がいる。愛しているこの僕がいる。君をこの世界に送ってあげた僕を、君は愛してくれるはずだ」
英利「僕は、君の創造主なんだ」
(10話)

 

 さて、カールのことはもう忘れていいでしょう。玲音を「作った」英利と玲音の「父親」である2人はともに玲音の「創造主」です。この点を踏まえた上で、2人の愛の違いは次のようにまとめられます。

 

  • 相手の愛を要求するか
    英利は、要約すると、「君は(創造主である)僕を愛してくれるはず」といいますが、康男はそれを要求することをしません

  • フードを脱ぐか
    康男は「フードを脱ぎ」ました。ここで、康男にせよカールにせよ、「フードを脱が」なければ愛の告白をすることはできないと考えるのはそこまで変ではありません。一方、英利はそんなそぶりを見せません。


玲音と康男の会話 分析

 以上を踏まえて2人の会話を分析します。

 


フードを脱ぐ

 康男は「もういいんだよ、そんなものを被らなくても」と言います。先程見た通り、康男の方の愛の告白のためには、「フードを脱ぐ」ことが必要だと考えることはそこまで常識はずれではありません。とすると、康男の発言は玲音へ愛の告白の許可を与えます。

 

 当然浮かぶ疑問は、どうして玲音はこの場面で康男に許しを与えられなければ「みんなが好きだった」と言えなかったのか、というものです。そのためには唐突に思えますが、そもそも、今までの玲音の「愛」、このシーンに至るまでの玲音の「愛」は2人のうちどちらのものだったのかを見極める必要があります。

 

「では、次のメッセージです。玲音を好きになりましょう」


玲音「ありすは、私が繋げなくても、私の友達になってくれた」


玲音「私、ありすが好き」

 

(いずれも12話)

 

 以上挙げた例からも分かる通り、13話以前の玲音の「好き」という感情は、康男よりも英利に近いものでした。では、次に疑問に思うのは、何故玲音はそのような愛しか持つことができなかったのか、ということです。この疑問は、康男の愛の告白は何故「フードを脱が」なければならないかという疑問と合わせて考えるとわかりやすいです。ここで効いてくるのが、英利が言った「創造主」というキーワードです。

 もし、康男が「フードを脱ぐ」ことなく玲音に愛を告白する、つまり、まだ自分が偽物の父親であることを明かさずに玲音に愛の告白をしたらどうなるか、ということを考えてみましょう。まず、この言葉は正確には伝わりません。何故なら、康男が玲音に本当に伝えたかった意味での愛を彼女に伝えることは、親子という関係がある場合には不可能だからです。さらに、玲音は果たしてその愛を正しく受け取ることができるのか、という論点もあります。親(創造主)が、その子供に向かって親子の情とは異なった、「愛」を告白する(必ずしも恋愛的なものを意味しません)。はたして、その生活の全てを親(創造主)に依存している子供はその「愛」を受け止めることができるでしょうか? 不可能である、と答えることに大きな飛躍はありません。英利がそうであったように、創造主の愛はそのまま伝えられてしまうと必然的に被造物からの愛を要求することになってしまいます。

 さて、玲音は2人の被造物(康男の場合は違いますが)であると同時に、全人類を支配することができる「神」でもあります。だから、この理屈は彼女にも適用することができます。

 全人類の創造主にも等しい能力を持つ彼女は、それゆえ、その愛を被造物である人間に伝えることができないのです。これは、康男や英利の場合とは規模が大きく異なります。康男は、結局彼女に愛を打ち明けることができました。なぜなら、その親子関係は本当は偽物だったからです。つまり、「フードを脱ぐ」ことができたからです。英利は? 彼が生み出したのは結局「玲音」1人だけです。人類全員に対して愛を告げることが不可能になった玲音とは状況が大きく異なります。そうでなくても、英利は誰かから愛を要求することに対して罪悪感をおぼえることはないでしょう。英利はそもそも、他の人間なんて好きじゃなかったのです。

 実際に玲音が誰かに愛を伝えてしまったらどうなるのかは、ありすの結末を見れば明らかでしょう。たしかに、彼女がおかしくなってしまった直接の原因は英利ですが、その大本の原因は玲音がありすを「繋がなかった」からです。そして、その原因は彼女がありすのことが好きだったからです。

 以上を踏まえれば、私がAパートで(わざとらしく)触れた、「玲音が自分を消さなければならなかった理由」が分かります。何故玲音は自分の存在を消す必要があったのか? 「みんなが好きだった」からです。何故玲音はそれなのに悲しそうなのか? その好きだったみんなに思いを伝えることができなくなったからです。その誰にも会うことができなくなってしまったからです。それを誰かに伝えることすらできなかったからです。何故、それを伝えることができなかったのか? 「神」である彼女にそんな許しを与えることができる存在などどこにもいなかったからです。

 さて、このシーンではその玲音に対して、康男が与えられないはずの「許し」を与えます。何故彼女が涙を流したのか、それでどれだけ彼女が救われたのかは明らかだと思います。そして、このシーンが彼女の考えにとって大きな転換点になったことも理解できると思います。

 

「みんなが……」「好きだって?」

 13話でれいんは、「それを人がしる必要があるのかな?」と言います。これは直接は「ワイヤードがどこにつながっているか」に対する返答ですが、このような一種の不可知論が本編に挿入されることの意味は大きいです。具体的には、この作品で最上位の神を想定することが許されることになります。なので、このシーンの康男を玲音よりも上位の神であると考えることに問題はありません。

 しかし、こんなデウスエクスマキナで片付けてしまっていいのかという疑問はもっともです。なので、少し勇み足かもしれませんし、考察の本旨(13話の問の解釈)とはそこまで関係ないのですが、康男が玲音の言葉を遮ったシーンから想像を膨らますことで上位の神の存在抜きで説明しようと試みます。

(というより、この段階で、13話の問である「玲音は何か」から、それを問わしめたところである「何故玲音は神であることに納得出来ないのか」という暗黙の疑問へと重心をずらすことは正当化できると思います。基本的にこの記事では最初の方針を守るつもりでいるので、それはしませんが)

 仮に、全てが玲音の妄想であるとしましょう。つまり、玲音は最終的に自分のことを認めてくれる妄想の父親を作り出したということです。これは、間違った解釈ではないですが、心情的に受け止めることができるかというと微妙です。彼女の感情の動きを考える上では、この経験が本当のものであっても妄想のものであっても変わりませんが、我々はこの経験が真正なものであってほしいと思います。

 実は、一つだけ条件を付け足せば、これが空想であっても真正な経験であると言うことができます。それは、これがただの空想ではなく、彼女が実際に経験した出来事をもとにした空想だという条件です。

 先程述べたように、この場面は10話の場面の立場を逆にしたものです。とすれば、この「空想」は、実は以下のような出来事のメタファーだと言うことができます。すなわち、「玲音は絶望のさなかで、自分が『みんなが好きだった』事に気がつき、それを誰かに伝えたいと願ったが、記憶の中に、全く同じ事をしようとしていた人を思い出した」という出来事です。

 自分と全く同じ行動を取ろうとしていた人の記憶。これが意味するものは何でしょうか? それは、自分と全く同じ感情を抱いた他者の存在です。

 とすると、少し説を修正しなければなりません。玲音を救ったのは誰かに許しを与えられたことではなく、自分と同じ感情を抱いた誰かの存在に気がつくことができたことです。他者との通路を全て遮断してもまだ残る誰かの残滓。それは自分を自分たらしめる記憶の中にあり、断絶のさなかにも他者の存在を玲音に知らしめました。あるいは、これはある、場合によっては単なるコミュニケーションよりも深い、逆説的な「繋がり」なのかもしれません。

(これ以上深めることはしませんが、もし気になる方は10話冒頭に玲音と英利の間でなされた(意地の悪い)先読み合戦と、この康男と玲音との会話無き会話とを比較してみると面白いかもしれません)

(述べるタイミングがなかったのですが、10話の康男の言葉の「あなた」や「玲音さん」を「みんな」に、「家族ごっこ」を「人間としての日々」などに置き換えると、これを玲音が発したかったメッセージに読み替えることができます。別にこの考えが正しいという根拠はどこにもないのですが、それなりに納得できるメッセージになります)


ありすとの会話

 さて、今までの分析でもう考察の目的自体は果たせそうですが、せっかくなのでありすとの会話についてもかんたんに触れておきます。

 前の場面は過去の場面の反復だったわけですが、この場面も反復だと考えることができます。ありすは、その恋人の「先生」と一緒に歩いています。そして、2人は「ベッドルームのカーテン」なんて話もしています。多少飛躍しますが、このことから、この場面を8話のシーンのやりなおしだと考えることができます。

 玲音は過去、何度もありすを傷つけました。もう、玲音は彼女を傷つけることはしません。ソファ→部屋の外→歩道橋と、彼女がありすへの距離を大きくしていったことからも明らかです。

 おそらくは、これが正しい彼女たちのあり方なのだと思います。それでも玲音は幸せそうに見えます。何故か? 自由に想像していいと思います。誰かに理解してもらえて、問題を解決できたから、と普通に考えてもいいでしょう。あるいは、少し深読みをゆるすなら、玲音は、この短い会話でも、「未来」にありすが振り返って、玲音が父親との記憶を回想したときのように、過去の2人の気持ちを通じ合わせるような「繋がり」が見込めると思ったからかもしれません。記憶は過去だけじゃなく、未来にも続いていくものなのですから。

 

 

総括

 さて、以上で13話本編の分析はあらかた終わったので、前回提起した問題に対して解答を与えましょう。最初に述べた通り、最終的には感覚的に答えを出さざるを得ませんでした。


「こっち」と「そっち」

イメージとしては、13話Bパートの玲音の世界と普通の世界との区別が一番わかり易い用に思えます。より理屈をこねて説明するなら、本来人間の意識とそれが集まって創発した意識とは別の世界にあるはずのものであって、誰かが勝手に繋げなければ交わることはありませんでした。その繋がりを切った上で、玲音が本来いるべき側を「こっち」。普通の人間が要るべき場所を「そっち」とするのが適切だと思われます。

 「つながってるからそっち側のどこにだっている」、といったときの「繋がってる」という言葉の意味は、人間の脳細胞が人間の意識にたいして持つ意味での「繋がってる」という言葉と等しいです。その意味では依然として玲音は他の人達と繋がっているのですが、それは、英利が行ったような、玲音と他の意識とをその階層の区別なく繋げてしまうというものとは様相をことにしています。(集合と冪集合が繋がってるイメージ)


玲音は何か? どこにいるか?


 玲音は、「神」です。より正確には、人々の意識が集まって創発された新しい意識ですが、これを神と呼ぶのは間違っていないでしょう。結局のところ、玲音とれいんは同じものです。
 もちろん、玲音はそんなことははじめからわかっていました。それなのに、玲音は自分がれいんであることを受け入れることはできません。それはなぜか、という話は上でかなり詳細に渡って説明したのでここでは省きます。

 以上の説明で、目標は達成できたように思えます。

 この物語の最後を飾る次の言葉も、今では理解することができるでしょう。

 

「私はここにいるの。だから一緒にいるんだよ。ずっと・・・」(13話)

 

  長かったですが、当初の目的は達せられたように思えるので、ここで考察を終わります。読んでいただいてありがとうございます。(長かった)