『serial experiments lain』 考察メモ(3)前編 13話解釈のための問題設定と予備分析

 

 予告通り、今回は『lain』の最終話である13話について考えていきたいと思います。


 はじめに断っておきたいのは、わざわざこの回だけ特別に扱う理由は、単に最終回であるからというだけではないということです。実際、何を言っているのか、やっているのかわからない場面というのはこの作品にはたくさんあるわけで、この回についての考えを述べるだけでその営みを打ち切ろうというのなら、それ相応のエクスキューズが必要になります。

 このあたりをはっきりさせるためにも、まずは、「なぜ13話について説明できればこの作品の『考察』として十分なのか」という点について私なりの解答を与えたいと思います。

 

考察の考察

 もう少し視野を広げて、より一般的に、ある物語を考察するという行為について考えてみましょう。

 今日、ある作品に対する「考察」はどこででも見ることができます。Googleの検索窓に作品名を入れて、横に「こ」の文字を付け加えればよくわかります。その内実はさまざまで、方法論についても、展開予測や単なる感想にとどまるものから学術論文一歩手前のところまで、また、対象についても、本作のようなアニメや漫画から、純文学、果ては曲の歌詞にまで多岐にわたります。

 このような「考察」はもちろん個人の自由です。人がある作品から何を読み取るかは自由ですし、それを常識的な手段で表現し、公開することには何の問題もありません。

 一方で、本当に考察なんてものはその作品に必要なのか、という疑問を抱くことも、また自由です。とすると、次のような連想も不自然ではありません。「不必要な『考察』を掲げる人たちの大きな声でその作品の受容が歪められてしまうのは、果たして、正しいことなのか?」という連想です。具体的には、20年も前のアニメに対して賢しらに数万字にも及ぶ頭の悪い「考察」を書きたて、検索結果を汚染することは正しいことなのか、それは作品にとって迷惑以外の何物でもないのではないか、という疑問です。(自己紹介です)

 もちろん、私はこの記事にそんな「正当性」なんて求めませんし、私程度の記事がこの作品に対する未だ根強い人気に冷水を浴びせることができるだなんて考えることすらおこがましいです。しかし、それでも、何か作品の方から導いてくれるものがあって欲しいと思うのです。ある作品を見たとき、誰もが抱くであろうと信じている、「よく考えてみなければならない」あるいは、「よくわからないけど、ここには本当に大事なことが述べられているような気がする。そして、それは解き明かされるべきだ」という直観は本当に無意味で無根拠なものなのでしょうか? あるいは、それは口さがない人達が言うように、ペダンティック中二病患者を釣るために製作者によってまかれた餌にすぎないのでしょうか? 私がほしいのはこのような意見に対してたとえ弱々しくても反論できるような何かです。

 


本考察記事の目標設定


 そんな問題意識をもって本作品の最終話(13話)を見てみると面白いことに気がつきます。

 御存知の通り、冒頭、テレビの画面を映したようなノイズの中から、玲音が「こちら側」へと問いかけます。そして、この回の最後には、再び彼女が私達の前に出てきて、冒頭で述べた問に対する答えのようにも思えるメッセージを残していきます。つまり、よくよく見てみると、この最終話は「問題→本編→解答」という構造をしているわけです。

 あるアニメの最終話が、主人公による、視聴者に向けているともとれるような形での問題提起に始まる。そして、一番最後の場面に、同じくそれに対する答えのようなものが述べられる。こういう状況で、この問いかけと答えこそが、この物語が伝えようとした最も重要なメッセージだと主張することはさして奇異なことではないでしょう。

 とすれば、この作品が伝えようとしたメッセージは明々白々なものなのでしょうか?

 形の上ではたしかにそうです。でも、こんな答えで納得できる人はいないでしょう。何せ、13話冒頭の内容は雑にまとめると、「私はこっちにいるのかそっちにいるのか?」で、その答えは、「私はここにいる」なのですから。私たちはこの作品が発する最も重要な主張を形の上では手に入れることができましたが、その意味は依然として不明です。

 そう。普通に見ればこの作品は意味不明です。だからこそ、私たちは自然に次のような問題を設定することが可能です。

 

13話で提示された問とその答えは何を意味しているのか?

 

 これこそ、私達が探していた、「考察」のための導きの糸です。というのも、この問題の意味を問うという目標を設定するという一見小さく見える一歩だけでも、私たちは次のように多くのものを得ることができるからです。

  • 「考察の正当性」
     何はともあれ、問題とその解答は形式的に与えられたのだから、それを形式的に、つまりは比較的論理的な方針で解きあかそうとする試みは咎め立てられるものではない。解答を提示しないまま読者への挑戦状だけで終わったミステリーに対して私達が意見を述べることができるように、私達もこの問を解こうとする限りにおいてこの作品を「考察」してもよい。この問は開かれている。
  • 「考察の終点」
     もし、作品に対する「考察」なるものを「作品に対する考究」と定めるなら、それは終わりないものとなる。しかし、作中である問題が提示され、それを解くことを目標として掲げるなら、その行為の終了を持って「考察」に一段落つけることができる。ある程度明確なゴールを設定できることは本作のようにさまざまな解釈を許すような作品を扱ううえでは大きい。よくわからないさまざまなものの中で、確実に説明できなければならない小領域を切りなはせることは重要である。
  • 「考察の方針」
     私たちは問も答えもすでに手に入れている。それなのに、何故それがわからないのか? 簡単である。「そもそも何を問うているのかが理解できていない」、「さらに、問がどのような答えを要請しているのかも理解できていない」、「問と答えは分かったがそれがどのように導かれたのかが理解できない」……
     さらに重ねて、「何故問が理解できないのか」、「何故…」、と繰り返していくことができる。これは難しい問題だが、例えば今回のような場合は指示語や指示対象を明らかにする、どんな言葉で問われているか、その言葉は作品中でどのように使われたのか、など、可能な限り今あるものを綿密に分析することが初手であることは間違いない。


 いままではっきりとは書かなかったのですが、実はこの作業こそ私がこの3回に及ぶ(4回になりましたが)考察記事でやりたかった唯一のことです。今更こんなことを言われても困るかもしれませんが、私は前回前々回の記事が直接正しいことを言っているかどうかにはほとんど興味がありません。私はこの作業を行うことにどれだけ貢献するかということ以外で前回前々回の記事を評価するつもりはありませんし、だからこそなかば強引な論法を振りかざしたのです。とはいえ前の記事を軽視するつもりもありません。問題というのは、案外それを理解することや、それがどのような地平に対して開かれた問なのかを理解するほうが解決よりも難しかったりするものです。その意味では、本編よりもその準備により多くの字数を費やしたとしても何の不思議もないでしょう。

 さて、やることははっきりしています。まずは、今ある問いとその答えを可能な限り綿密に、形式的に、多くの人が納得してくれるような形で、なるべく主観を交えずに、分析することです。非常に難しい課題ですが、できるかぎり取り組んでみようと思います。

 

問の予備分析

「ーーえっと、私またわかんなくなっちゃって…… 私がいるの、こっちなのか、そっち側なのか。
 私、そっち側のどこにだっている。それは知ってるの。だって繋がってるんだもの。でしょ?
 でも、私の、本当の私のいるところってどこ? あ、本当の私なんて、いないんだっけ。私は私の存在を知っている人の中にだけいる。けど、それだって、今こうやってしゃべっている私は、私、だよね?
 この私って、私って、誰?」
(13話冒頭 平仮名だと読みづらいので「あたし」を「私」に変えました)


この問のさしあたりの意味
 私たちはゼロから始めなければいけないわけではありません。前回までの記事で行った考察(正確には「前-考察」)によって、私たちはすでにこの問の大まかな意味、さしあたって分析を進めていくのに必要な意味は理解できています。だいたい次のような感じです。

 玲音は、この物語の主人公であり、この物語は彼女の一人称視点で語られている。彼女が彼女の視点から物事を見ているという限りで、彼女の存在は疑い得ない。しかし、彼女の存在から、そのありとあらゆる特徴を奪い去ることは可能であるし、そもそも彼女には作られた目的があったのだが、その目的は彼女ではない彼女、「レイン」によって果たされており、彼女は彼女の本質と全く関わり合っていないように思える。本質に関わっていないはずなのに、彼女の視点から世界を見ている彼女にとって彼女の存在はやはり、疑い得ない。じゃあ、「玲音」とは何か? その生み出された目的や本質と全く関わり合わず、主観的には普通の内気な女子中学生で、にも関わらず、やろうと思えば世界を意のままにすることができる彼女とは一体何なのか。一言で言うと「玲音とは何か?」

さて、以上のように把握した上で、細かいところを見て理解を深めていきましょう。

 

「また」わからなくなる
 「また」、という言葉の存在によって、この問は本編と同じ時間軸で発されたものだということができます。少なくとも、この問が、常にこの作品をこのままの形で貫いていたような無時間的な問ではないということです。この問には、本編とリンクした時間軸において発せられるあるタイミングがあり、状況によっては発することができなかったりするわけです。


 問が時間に依存したものなのかそうでないかということは極めて重要です。前者に答えるだけなら、答えるために必要なその作品に対する理解は、1話の内容、2話の内容、3話の内容、……と、それぞれをそれを見た当時に見たときの印象を元にするだけで十分です。しかし、問に発されたタイミングがある場合、特に本作のようにあるキャラクターの主観に物語が依存している場合は、「n話の内容」をそのまま捉えるだけでは不十分で、「n話に対する問いが発された時点での解釈」まで踏み込まなければなりません。つまり、この問に答えるためには、『lain』の内容を無時間的に捉え理解するだけでは不十分であり、13話冒頭から振り返ったときの各話を理解するのではなくてはなりません。言い換えれば、「8話は何を言っていたのか」ではなく、「13話の地点からすると8話は何を言っていたということになっているのか」を考えなければならないのです。


 前回の記事で、私が「記憶」を捨てて「目的」をレインの存在原理だと主張した最大の理由がこれです。1から12話を上で言った通りの意味において、「無時間的」に捉えれば、正しいのは「記憶」からレインを解釈することです。その説を退けたのは、私の目的からすると、問題にすべきは、12話の12話地点でどういう意味を持っているか、ではなく、12話を13話から見るとどういうことになっていたか、の方だったからです。


 もっと極端な話をすると、実は、この問に答えるためには「レイン」という存在に対する直接の解釈は必要ありません(「レイン」は13話では出てこないし問題にもならない)。なので、「レイン」をあの激しい性格の一個体として捉えるのではなく、それをもっと推し進めて、「岩倉玲音の理想的な姿」とか「本来あるべきだった岩倉玲音」だとか、この問とあう形で読み替えることは可能です。(もちろん、本編に忠実であるべきです)。前回の私の「レイン」解釈に対する違和感はこれでだいたい解消できると思います。


「こっち」と「そっち」
 発せられた状況からすると、視聴者から見て、こっち=画面の向こう側、そっち=画面のこちら側、と考えるのが普通かもしれません。が、はたして、この作品にそんなメタな視点を持ち込む必要があるかはまだ疑問のままですし、これがファイナルアンサーだという確証はありません。解答が「私はここにいる」である以上、「ここ」と「そこ」に意味を与えることは、この問題を解くことと等しいわけです。なので、この言葉の意味は今の段階では踏み込むべきではないでしょう。同様に、ワイヤード/リアルワールドのことだと考えることもできますが、今の段階では深くは追わないことにします。


繋がっているからそっち側のどこにだっている
 そっち側のどこにだっている、というのは、lainのことでした(一回目の記事参照)。逆に、「そっち側」とはlainがいる場所だということになります。
 繋がっている、というのは、lainが玲音と繋がっていること、玲音がlainを手足のように使役できることでしょうか。とりあえずの理解はこんな感じでいいでしょう。

 

本当の私はいない、私は私を知っている人の中だけにいる
 「本当の私」とは玲音のことです。文章全体は英利の思想を意味します。具体的には前記事で引用した12話の玲音の発言を見るわかりやすいです。


またわからなくなる
 説明の都合で最後に回しました。「またわからなくなる」ということは、ある地点でわからなくて、それが一回わかって、それがさらに「またわからなくなる」ということです。ただでさえよくわからない作品なので、こういう考えればわかりそうなところはきちんと詰めていくべきでしょう。

  • わかった
     12話冒頭で彼女は「わかった」と言っています。

    「なあんだ、そうだったんだ。世界なんてこんなに簡単なものだったの。あたし全然知らなかった。あたしにとって世界は、ただ怖くって、ただ広くって……、でもわかっちゃったら、何だかとっても楽……」(12話)

     


     その後の場面で、玲音はありすに「みんなのきおくなんてただのきろく」とメールを送り、その後、13話冒頭と同じ演出で、「人は、人の記憶の中でしか……」と語りかけます。彼女が「わかった」内容はこのあたりでしょう。
  •  わからなかった
    とすると、わかる前は、この場面の前あたりでしょう。具体的に指摘するのは難しいですが、とくに誤解なく理解していただけると思います。そのとき、彼女は「あたしにとって世界は、ただ怖くって、ただ広くって……」と思っていたことも指摘しておきます。
  •  またわからなくなった
     同じく、12話に、「わかんないのは、あなたのこと、神様」とあります。これが直接的に指示しているのは、英利に「権利」を与えたのは誰かということです。この「わからない」はその直前にありすの行動の影響を受けての言葉であることも指摘しておきます。

もちろん、これらがそのまま13話で彼女が「わからない」といっていることの内容ということにはなりません。私がやったのは単に作中で彼女が「わからない」といっている箇所を持ってきただけであって、これが13話で直接問われている「わからない」だとするのは飛躍です。が、常識的に考えればこの問や、このような問を発せざるを得なかった彼女の感情が、13話の問につながっていくことは期待できるでしょう。


 こういうふうに考えることもできます。最初に、「また」のところで分析したように、私達が扱わなければならないのは、「12話で何が言われたか」ではなく「13話冒頭では12話では何が問題になっていたことになったのか」です。13話冒頭で彼女がわからないと言っているのは、「わたしがこちらとあちらのどっちにいるか」なので、今挙げたような彼女の「わからなかったこと」は、最終的に「こちら側とそちら側のどっちにいるか」という問に回収され、この問いによって適切に表現されるようになったと考えることもできます。


 さて、問の方の分析はだいたいこんな感じになりました。
 ミクロに見すぎたので、少しマクロに、大雑把に捉えてみましょう。結局問われているのは何でしょうか。「私は何か?」と「私はどこにいるか?」です。では、この2つの問に答えればいいのでしょうか? 実はもう少しだけ複雑です。そのために、まずどんな答えが得られたのかも分析してしまいましょう。

 

答えの予備分析

「私はここにいるの。だから一緒にいるんだよ。ずっと・・・」(13話)

 問に対する答えは前半部分だと考えていいでしょう。「だから」で結ばれた後半部分は、解答から玲音が下した決断です。先程、この問と解答が『lain』で最も重要なメッセージだと言いましたが、少し訂正する必要がありそうです。『lain』で最も重要なメッセージは、この後半部だと考えるべきでしょう。とはいえ、この問題を解かなければならないことには変わらないので、依然として考察の方向性は変わりません。


 さて、得られた答えは「私はここにいる」です。聞かれたのは、「私はどこにいるか」と「私は何か」です。すると答えが1つ足りません。これはどういうことでしょうか?

 

(補足
私が誰か? に対する答えが、私は一緒にいる、だと考えることもできます。とするとここから下の議論の見た目は大きく変わりますが、このへんは簡単な表層の解釈問題なので見た目ほど大きく結論が変わることはありません。何にせよ、「だから」という接続詞で結ばれている以上、「どこにいるか」に答えるのが最優先でしょう)

 

 鋭い方なら、問題に対する対処は何も解決だけではないと考えるかもしれません。問は、解決するだけでなく解消することも可能です。解消するとは、問題のよって立つ基盤、その問題を発する意味そのものが探求の過程で消えてしまったということです。「何か」の問題は解消されたのでしょうか?

 この考え方はそこまで悪くないと思いますが、私は別の解釈をしたいと思います。間違いは私達が、問題が2つあると思ってしまったことにあります。実は、『lain』という作品においては、この、「何か」と「どこにいるか」という問題は全く同じもので、区別されないのです。

 一番はっきりわかる場面は13話後半の玲音とレインの会話です。

れいん「じゃあ、貴方は何なのよ。玲音」
玲音「私、私は……私はどこにいるの?」
(13話)

 この場面の玲音の台詞は、れいんの発言を繰り返したものだと考えて良さそうですが、れいんの「何か」という問いを、玲音は「どこにいるか」としています。


 他にも、英利の言う神様の定義もそのようなものでした。定義とはそれが何であるかを示したものですが、英利はその答えを普遍として存在すること、つまり、どこにでもいることだと見なし、存在する「場所」という観点で「何であるか」ということに答えます。

 以上見たように、本作においては、私達の日常の用法からすると多少の違和感はありますが、基本的に本作では、「何であるか」と「どこにいるか」は同じことを意味します。より正確に言うなら、本作において、「何であるか」を根源的に規定しているのは「それがどこにあるか」だということになります。

 もちろん、場所を聞いているからと言って、それがどこでもいい場所なわけではありません。問にはそれが開かれている地平があります。この場合は、先に見たように、「ここ」と「そこ」という言葉で観念されるような「場所」概念に対して開かれているわけです。
 
((似非)哲学的に見ると、玲音の疑問は、実存とは何かという大問題なのですが、本作はこの実存的な問題を最終的には場所論的な設定に落とし込んで解決するということです。実存的な問題に決定的な解を与えることは非常に難しいことを考えると、個人的にはこの製作者の判断は英断だと思っています)

 

 これで、問とその答えについては一通りの見通しをつけることができました。さっさと「こちら」と「あちら」を定義してしまえばここで考察を終わらせることもできます。もうこれ以上この問題に対するヒントが無いんだったらそうせざるを得ません。しかし、まだできることは残っています。


 13話は問題と解答に挟まれたサンドイッチ構造をしているということでした。となれば、問題と解答の間の部分、13話の本編こそ、玲音がその問題をどのように解いたかというプロセスに相当すると考えて良さそうです。このプロセスを細かく分析していけば、私たちはこの問題と解答に対してより近づいていくことができそうです。

 

 

 予想外に長くなったので、記事を分けます。


 次回は13話の本編の幾つかのシーンを見ていき、最終的に「玲音」が何に出会ったのかを特定した上で、そもそも玲音にとって本当に問題だったのは何なのか? ということについても考えていきます。その作業をもってして、この『lain』という作品の考察に対して、(上で述べたような意味での)「一段落」をつけられると思います。

 

 

 

追記:改めて見てみたら、13話で「どこにもいないんだったらあたしは誰?」って言ってました。なので、実質的には問は1つだったという上で述べた考えは修正が必要で、やはり2つの問を両方並列で扱うのがいいような気がします。