萵苣猫雑記

tayamaの雑記

『25歳の女子高生』感想

放送時、曰く言い難い魅力を感じて視聴をつづけていた。最終回のある台詞がきっかけとなり、この魅力を言語化してみたいと思うようになった。頭の整理のためにも記事にまとめようと思ったのだが、原作が連載中のマイナーな作品でもあり、検索結果や作品評価を汚染しかねないと考え、当時は控えていた。
時の流れは早いもので、放送からは4年以上も経った。残念ながら原作の単行本も長らく刊行されていない。もう悪目立ちすることもないだろうし、誰か自分と似た感性を持った人の目に留まらないとも限らない。そこでここに考えをまとめることにする。


最終回での興味深い台詞とは蟹江亮人の「今の方が好きだ」という告白である。私はこの台詞を次のように理解している。蟹江はおそらく「昔の自分(蟹江)よりも今の自分の方がお前のことが好きだ」と言おうとした。しかし、名鳥花は「昔の自分(名鳥)よりも今の自分の方が好きだ」と蟹江に言われたと思った。つまり、作中最も重要なこの告白は、誤解して受け取られた。この解釈からはじめ、本作を読み解いていきたい。問題となっているのは、それぞれのキャラクターの、過去と現在との差異だ。

蟹江は変わった。それは自他ともに認めることだろう。髪の色も生活態度も変わり、最初、名鳥は彼が彼だとわからなかった。一応は立派な教師になった。彼はそんな自分の変化に寂しさを覚えているようにさえ見える。今の彼と過去の彼には明確で実体的な差異がある。

では、名鳥はどうだろう。蟹江が繰り返し言う通り、彼女は変わらなかった。過去の彼女と現在の彼女の間には、実質的にはいかなる差異もなかった。だから、本当は正体を見抜かれることをあんなに恐れる必要などなかった。誰も彼女のことに気がつかなかったのだから。皮肉なことに、蟹江が唯一彼女の正体を見抜けたのは、彼女が過去の彼女とあまりに変わらなかったからなのだ(逆に、彼女は彼のことがわからなかったことを思い出したい)。蟹江は最終話においてさえ、彼女への好意を過去の回想として語る。蟹江は今の彼女と過去の彼女を区別していない。その意味で、「過去の名鳥花よりも今の名鳥花が好きだ」という文章は単にナンセンスである。今の彼女と過去の彼女には空虚な差異しかない。

それなのに、彼女だけは、彼女が変わらなかったということに気がつこうとしない。彼女は過去と現在の自分があまりに同じだということを否認し続ける。そして彼女はそれを埋める実体的な差異を求める。従妹の替え玉を引き受けるという馬鹿げた提案を呑んだのは、誰かに正体を見抜いて欲しかったからだ。というのも、もしも彼女に正体なるものがあり、それが暴かれることができるなら、彼女はようやく望む差異を手に入れることができるからだ。しかし、正体などない者の正体など暴くことができない。蟹江だけが彼女を見抜くことができたのは、彼は、嘘をついたという嘘だけは見抜くことができたからだ。あるいは、何も見抜けなかったからだ。一方で、彼女が見抜いて欲しかったのは、嘘をついた(=自分には秘密がある)ということだけだった。彼女は、自分が嘘をついたことにできる何かの印が欲しかった。

ひょっとすると、蟹江は彼女が滑稽な演技で満たそうとした空っぽの嘘に彼なりの方法で向き合おうとしたのかもしれない。16歳が25歳になることが、子供が大人になると言うことであれば、子供には教えられないことをしてみることは1つの回答になりえる。はたして、その行為は彼女の求める差異を生み出すことができたのか。私にはそうは思えない。本作の濡れ場はまずは失笑を起こす滑稽なものだが、それが済むとあとはひたすらに空虚に見える。空虚に見える、と言うのは、肉体関係を持ったところで彼らの関係性は何も変わっていないように見える、ということだ。私は名鳥花が怖い。彼女は行き当たりばったりに状況に流され、何も拒まず、時には恐ろしい目に遭ってもそれをやめない。彼女の行動の連鎖にかろうじてつけられる道筋は、正体がばれてはいけないという強迫観念だけである。しかし、本当にそう思っているのであれば、こんなことを始めなければよいわけで、もし彼女の行為にそれでも整合する動機を見出そうとするなら、つまり無意識にその逆を望んでいる、と解釈することしかできない。彼女のこんな強迫観念をどうやって除くことができるだろう。こんな彼女を一体誰が救えるのだろうか。いやそもそも、彼女は救われるべき苦境にいるのだろうか。

それが、できるのである。驚くべきことに彼女は救われてしまったのだ。それが、冒頭に書いた告白のシーンで起こったことである。蟹江の、今の蟹江の方が名鳥のことをより好いている、という告白を、名鳥は、今の名鳥の方が昔の名鳥よりも蟹江に好かれている、ということだと理解した。

蟹江がその告白で「今」という言葉にかけた蟹江自身の時間を、一つの誤解を梃子に、彼女は自分の時間に差し替えた。彼女は、蟹江の過去と今という実体的な差異を、彼女の過去と今の差異に転嫁したのである。自分が演じた過去と現在の空虚な差異を、この告白の迫真性で備給した。しかしそれは不可解だ。蟹江の過去と今、そして名鳥の過去と今。それらは「差異」という言葉で呼ばれるということを除けば全く異質なものであるはずなのに、それが「差異」であるというだけで、まるで貨幣か何かのように、他の差異を媒介することができるとでもいうのだろうか。いやそもそも、現在の蟹江の過去との差が浮き彫りになったのは、それ自体、何も変わらなかった名鳥から彼の差異が逆照射されたからに他ならない。不変のはずの彼女が励起した他者の差異が逆に彼女自身に取り込まれ、彼女の分裂を媒介するなど、そんなことがあり得るのだろうか。

しかし、私はこの告白のシーンの経過に何の違和感も覚えなかった。私は、名鳥が泣いたことを(つまり、望むものを手に入れたことに)素直に納得した。こういうことは起こり得るのだろうと思った。だとすれば、私はこのようなことが起こりうることを信じなければならない。

この物語はこれからどうなるのだろう。ありふれたハッピーエンドを迎えることには疑いがない。名鳥花は蟹江亮人と結ばれることでようやく自己を肯定することができる。恋人、妻、つまりは誰かに愛されるようになったという印を手に入れることができる。しかし、「愛されるような自分になった」と自己を肯定することは、愛されなかったことから何かしらの距離を作り出すことに他ならない。その、自己にとって最も根源的な差異を、彼女は蟹江が費やした時間を移しとることで埋めた。彼も彼女もそのことを知らないし、知ってもいけない。彼女が「変わった」ことすら認識していない彼に至っては、自分から何かが盗み取られてしまったことすら理解していない。彼らは何一つ分かり合っていないのに、分かり合っていないことで幸福になる。

ひょっとすると、こんな誤解はしばしば起こっているのかもしれない。こんな奇跡は日常でありふれているのかもしれない。誰も、それを行った当の本人たちにすら気づかれないままに、今もどこかで起こりつづけているのかもしれない。