萵苣猫雑記

tayamaの雑記

『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』感想

 

本間芽衣子のねがいは何を意味していたのだろう?

 

あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』をみてから随分たつが、この問がながらく気にかかっていた。もちろん、作中で解答は与えられている。めんま本間芽衣子)のねがいは、仁太の母親(塔子)の「仁太が自分が病気になったせいで感情を表にださなくなった。本当はもっと笑ったり怒ったり泣いたりしてほしかった」という言葉をうけたもので、「じんたんを泣かす」というものだった(11話)。ねがいが叶ったのは具体的には8話のAパートの最後のシーンである。ここまでにはあまり誤解の余地はない。

 

しかしずっと気になっていた。このシーンでめんまのねがいは叶ったといえるのだろうか? たしかに泣かすという行為自体は達成されたが、それは塔子が望んだようなものだったのだろうか? そもそも塔子のめんまへの独白は、彼女が死ぬまえに見たかったということであって、ねがいというよりは一種のあきらめという趣がなかっただろうか? これを他人に「任せる」ことなど可能なのだろうか? また、直前の安城鳴子とのやりとりを踏まえるなら、自分の感情を表にだすことは、必ずしも肯定的に評価しきれるものだとはいえないのではないか……

 

いささか近視眼にすぎた。たぶん、本当に気になっていたのはむしろ、なぜ彼女の願いが仁太だけに関するものだったのか、ということなのだろう。「めんまのねがいを叶えること」はこの作品の最終目標である。一方で、この作品のもう一つの主軸が、時を経て疎遠になってしまった超平和バスターズの再始動にあることも明らかだ。ふつうに考えればこのふたつは密接に関係すべきだ。それなのに「じんたんを泣かす」という願いとその8話における解決はむしろこのふたつが独立であることを示す。

 

やりようはいくらでもあった。たとえば、なぜ10話でみんなで心を一つにして花火をあげるというエンドにしなかったのだろう? べつに結論はそう大きく変わらなかったわけではあるし、超平和バスターズのメンバー各々の本心はすでにでそろっていた。1話うしろに倒したところで最終的な結論は、彼女のねがいを、「超平和バスターズはずっとなかよし」というみんなのねがいで上書きするというもので。花火という画になる切り札を失ったためにほとんど力技となった11話のラストは、むしろこの作品の構成の欠陥を露わにした蛇足になってしまったではないか?

 

もうひとつ。なぜ解決がよりによって8話なのだろう。件のシーンは仁太がひとりで彼女のねがいを叶えることを決意した直後であり、全編でもっとも彼の孤独が強調される。それなら、超平和バスターズに伴う諸々はすべて省略して、最初から8話にいけばよかったということにならないだろうか。

 

このように「めんまのねがい」と「超平和バスターズの再結集」は、奇妙なくらいに交わらない。いったいなぜなのだろう。

 

もっと11話のAパートをすなおにみるべきだったのかもしれない。

 

ねがいを叶えてあげたいんじゃなくて、自分のためにめんまを成仏させたかった。(11話)

 

めんまを想う仁太を見ていたくなかったこと、仁太にだけめんまがみえていることがいやだったこと、めんまが消えて仁太と安城が一緒になれば自分がゆきあつといられること、流れていくめんまをみていることしかできなかったこと。

 

これが超平和バスターズのメンバーの懺悔である。興味深いのは、ぽっぽを除けば彼等の懺悔の根本の部分は、本質的にはめんまの事件がおこるまえとかわらない、ということだ(つねに蚊帳の外にいるという意味では彼もかわらない)。彼らはあの日もまたそのようにめんまにたいして消えて欲しいとおもっていた。

 

しかしあの日にはまだ彼女は生きていた。そして彼女はいまも一応はいるのである。だとすれば、めんまだけを無謬の純粋な少女にしておくことは正しいのだろうか? 彼女にもなにかしら懺悔すべき罪があったのではないか。超平和バスターズの面々があの懺悔の場面でさえ彼女のねがいは超平和バスターズに関することであるべきだと考えていたように、自分がねがっているべきねがいとはちがった、本当のねがいがあり、「じんたんを泣かす」ことはその意味で捉えるべきことだったのではないか。そしてそれは、他の面々がそうであったように、おもわず目を背けたくなるようなものだった。

 

以下、ほとんど根拠のない直感だが、私の考えるめんまの本当のねがい、というより、彼女のねがいが持っていた意味を述べたい。

 

それは「じんたんを泣かすこと」、つまり、いずれ死んでしまう母親を前にしても泣かなかった彼が、自分が消えてしまうとなったときには泣いてくれること、だったのではないだろうか。いいかえるなら、母親よりも彼にとって大事な存在になることだったのではないか。*1*2

 

本作をふつうにみるぶんにはめんまはあまりに純粋な少女であり、じぶんとしても意地がわるい解釈だとはおもうのだが、この解釈をとると、うえにあげた自分の疑問点は基本的にすべてなくなる。また、11話の細々とした展開にも説得力を与えるだろう。

 

なぜ8話だったのか? あの場面は直前の安城鳴子の告白と呼応していた。彼女が自分が嫌いになるような告白をしたように、めんまもおなじことをした。あのシーンが全体として超平和バスターズと全く関係がなかった理由については語るまでもない。

 

そしてなぜ10話で終わらせてはいけなかったのか。それは、超平和バスターズの面々は、めんま自身もふくめ、もう一度集まりたいなどと真におもったことはなかったからだ。その意味で、この作品の主軸が交わらない2軸であったことはまったく正しい。全員が超平和バスターズという中心と交わることがないエゴを持っていた。

 

それでも彼らは11話で「超平和バスターズはずっとなかよし」というねがいを叶えるために行為した。そのねがいはめんまに押しつけられたものだったが、彼女自身もそれをねがうことをねがったのではないだろうか。じつは一度も本当に「なかよし」であったことなどなく、その言葉を都合のいい言い訳に使っていた彼らが、本当に「ずっとなかよし」であることを望んだのである。それが最終話で描かれたことであった。

 


あまり実のない妄想に時間をかけすぎたかもしれない。上に描いたことがこの作品の正しい解釈だなどとは全く考えていないが、この作品であまりに純粋に描かれるヒロインにささやかな毒を加えいれてみることは、深みをますひとつのスパイス程度にはなるのではないか。

 

 

 

 

 

*1:本作で何度も繰り返される、めんまの生前最後の基地でのやりとりについて思い出したい。あの場面は、最終的に「仁太のめんまの気持ちを確かめること」と「仁太を泣かせる方法を考えること」のふたつの意味を持つ場面となった。そしてつるこの事前の警告にもかかわらず彼女はそれを避けることをしなかった。

*2:裏を返せば、彼女は塔子に嫉妬していた、ともいえる。ひょっとすると、大原さやか演じる母親のねがいも綺麗なものではなかったのかもしれない。仁太がもっと笑ったり怒ったり泣いたりしてくれること。それは、彼が、自分が死に際して、とりすました冷淡な姿ではなくて、喜んだり怒ったり苦しんだりする姿をみせてくれること、ではないか。でも彼女は結局それを得ることはないと思った。そうして彼女は、それをめんまに「任せ」た。