萵苣猫雑記

tayamaの雑記

『魔法少女まどか☆マギカ』感想

ずっと気になっていた『マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝』の一期を見終わった。『まどか☆マギカ』の世界観を踏襲した別のキャラクターの物語ということで、前作についても考えさせられることが多かった。ちょうどマルクスの『共産党宣言』を読んでいたというのもあるのだが、特に、本作での魔法少女システムの描写が興味深かった。この作品で描かれるこのシステムの発展の過程は、マルクスが語る資本主義の起源によく似ている。そして意外なことに、その線での読解を進めるなら、このシステムを真の意味で完成させるのはインキュベーターではなく、円環の理なのである。

 ***

考えてみると、その文明人としての自負とは裏腹に、インキュベーターのエネルギー回収方法は原始的だ。彼らは少女の希望と絶望の変化からエネルギーを取り出すという未知の科学技術(?)を持っているが、その行使の方法に目を向けるなら、これはほとんど狩猟採取か、せいぜい初期の農耕のレベルである。彼らは地球上をあてもなく動き回り、出会った少女の適性の多寡に一喜一憂しながら、見込みのある個体への個別のアプローチをつづける。そうして、無事に魔法少女の契約をかわすことができたら、あとは、彼女が無事に魔女になってくれることを黙って待っているだけなのである。それでは、山林で果実を摘んだり、肥沃な土地に種を蒔いてただ待っていたりするのと何も変わらない。

 

巴マミ美樹さやか佐倉杏子は、この、ある意味ではまだ平和な時代に魔法少女となった。確かに彼女たちの人生は悲劇的であり、インキュベーターに騙され搾取された被害者であることには違いがないが、それはまだ比較的穏やかなそれだ。穏やかだ、というのは、その搾取が、生産の効率化の果てに構築された収奪のシステムによるものではない、という意味である。インキュベーターにとって彼女たちは、実るかどうかわからない種、あるいは、売れるかどうかわからない商品である。そこにはその都度、一回限りの命懸けの跳躍がある。契約は取れるかもしれないし、取れないかもしれない。巴マミは死なないことができただろうし、佐倉杏子の人生は絶望で終わることがなかった。美樹さやかの人生は古典的悲劇のような、ある種必然的な破滅の様相を呈するが、仮にそれが必然的であったにせよ、それは彼女自身の、彼女の願いに固有な悲劇であった。言ってしまえば、彼女たちはまだ、その都度単に騙されただけに過ぎない。

 

状況が変わるのは暁美ほむらからだ。彼女は鹿目まどかを救える自分になることを望んだ。まどかを救うというのは、具体的には〈ワルプルギスの夜〉という魔女から彼女を救うことを意味する。ところで思い出してほしいのだが、魔女とは魔法少女の成れの果ての姿なのだった。おわかりいただけただろうか。暁美ほむらの願いは、魔法少女のシステムによって奪われたものを魔法少女になって取り戻す、という願いに他ならないのである。システムが奪ったものをそのシステムを使って取り戻させること。これが真の意味での搾取だ。文明人たるインキュベーターがそのことに気がつかないのはわけがわからないが、ここから以下のような悪魔的な洞察が得られる。すなわち、魔法少女という存在は他の魔法少女を生み出すのにも使うことができる、という洞察だ。ここが転換点だ。この洞察に比べれば、魔法少女の希望がいつかは絶望に転移してしまう、という意識のレベルの、言うなれば上部構造のレベルの悲劇など、大したものではない。*1

 

作中で描かれるように、魔女は次第にその強さを増していく*2。つまり魔女の被害者は増えていく。そしてその中には、その被害のゆえに魔法少女になろうとする者が現れるはずだ。産業機械の普及によって手工業者がその職を追われ、次第に自らの労働力を時間で売るしかなくなるのと似ている。プロレタリアート(無産階級)の誕生である。そして、ほむらのような、固有の願いを持たないいわばプロレタリア魔法少女は、より簡単に、より確実に、絶望して魔女になるだろう。この過程を図式的に示すのがほむらのループの中での鹿目まどかの願いの変化である。まどかが最初に願ったのは、おそらくはささやかながら彼女自身の願いだったのだろう。しかし、ループを繰り返し、〈ワルプルギスの夜〉の脅威をほむらを介してより深刻なものと認識するにつれ、彼女の願いは変化した。最終的に、彼女は、自らに固有の願いを捨て、魔法少女の救済を願うことになる。もはや、少女が生得的に抱く願いでは、システムが奪った損害を補填するという願いに太刀打ちできなくなるのである。機械の性能が上がるにつれ、生半可な能力では太刀打ちできなくなるのと同じである。次第にこの世界では、魔女に奪われた(る)ものを取り戻すということ以外の願いはその価値を失ってしまうのである。*3

 

キュウべえが強調する「少女の希望は絶望に転換する」という本作のテーゼが、真の意味で「科学的」な法則となるのは、この時点からだ。上に述べた通り、巴マミはまだ死なないことができたし、佐倉杏子は絶望に至らない実らない果実だった。そのようなあり方が可能だったのは、彼女たちが願いを、つまりは絶望の生産手段を所有していたからである。しかし、願いを所有しないプロレタリア魔法少女が増えるにつれて状況は変わる。少女の希望・絶望という、本来は各人に固有で質の異なっていたはずのものは、規格化されて相互に比較可能なものとなる。やがて、少女たちの絶望は、等質で交換可能となり、一つの量として計測可能なものとなる。ここに至って、少女の希望は常に絶望に転換する、という法則が普遍的な妥当性を持つことになるのだ。

 

そしてこの法則が成立するや否や、全てはこの法則によって記述されることとなる。マルクスが分析した通り、意識という上部構造は経済的な下部構造によって形成される。ほむらの、「まどかを救いたい」という願いは、魔法少女の再生産という下部構造が規定した物神崇拝的(フェティッシュ)な愛情に過ぎなかった。暁美ほむらの客観的な記述と彼女の主観的な願いとは、単なる矛盾だった*4。今や矛盾は止揚される。主観と客観が一致するような世界観が生み出されるのである。今となって考えると、巴マミ魔法少女にしたあの事故は、魔女のせいだったのではないだろうか。佐倉杏子の父親の説教を誰も聞かなかったのも魔女のせいだったのではないだろうか。絶望の原因が全て魔女になった世界から過去を振り返るとき、過去の魔女によらなかった絶望までも魔女によるものと解釈されるのである。そのような、主観と客観の矛盾が統合された世界観が成立するようになるのだ。言い換えるなら、魔女というある固有で特殊な現象が、絶望という普遍的な現象そのものになってしまうのである。魔法少女とは、過去でも未来でも、そういうものでしかありえなくなる。ここにおいて、このシステムには外部がなくなる。ここに至って、魔法少女というシステムは完成するのである。*5

 

円環の理とは、実はこの弁証法的統一のことだったのではないだろうか。全ての魔法少女を救うということは、自分が破壊した全ての魔法少女の願いの上に立って、それらが同じだった、と宣言することに過ぎないのではないか。少なくとも円環の理が、魔法少女を救う都度、まどかがそれを願わざるをえなかったその起源を、すなわち絶対的な絶望としての〈ワルプルギスの夜*6をも反復させてしまうことには、間違いがない。ただ単に強いだけの魔女だったはずの〈ワルプルギスの夜〉は今や、最強ではなく無敵の、絶対的な絶望として君臨することとなった。スーパーセルに被災しただけの見滝原は、世界の終わりの風景になってしまった。しかしどうすることもできない。環は閉じてしまった。そして円環が満ちてしまった今となっては、もう、この世界に外側はないのである。

 ***

以上、駆け足で見ていった。が、自分としては、円環の理をある種の搾取のシステムの成立とみなすこの結論をどう評価してよいかはわからない。


公式な世界史の教えるところでは、マルクス主義とは敗北した思想である。資本主義が勝利した、あるいは、少なくともそれが一番マシなシステムであることが判明した現在においては、この体系の成立とは歴史的達成に数えられるべき事象なのではないか、という考え方があるだろう。要するに、21世紀にもなってマルクスの言うことを額面通りに取るべきではない、ということだ。逆に、そもそも円環の理自体は『叛逆』において否定されているのだから、何かしらの瑕疵を含んだ解決だった、と言う考え方もあるだろう。

 

この大問題に自分が結論を出せるとは当然思えないが、自分の最近の関心がマルクスにあることもあり、彼の思想に沿った形で2つほど、とっかかりを述べて本稿を締めくくることとする。

 

一つ目は、マルクスの処方箋をこの世界で実行したとしたらどうなるかを考えてみることだ。幸い、おそらくはそれを独力で考える必要はない。マルクスが主張するのは、階級対立に対する意識の強化とプロレタリアートの団結であるが、これはまさに『マギアレコード』1期の終盤で里見灯花が行ったことだった。要するに、マギウスの思想はかなりこの処方箋に近い方向に進むのではないか、ということである。

 

二つ目は、『共産党宣言』の終盤で出てくる、ドイツにおけるブルジョワ革命はプロレタリア革命の序曲となる、という主張である。つまり、上で私が描いたある種のシステムの完結は、単なる資本主義システムの成立にとどまらず、同時にプロレタリア革命まで成し遂げたのではないか、ということである。

 

いずれにしても長く書きすぎてしまった。アニメは何かある思想を表現したり読み取ったりするための道具に用いるべきではなく、もっと純粋に楽しむべきものだ、という考えに、無論私は全面的に同意している。

*1:マルクスによる資本の定式とは「G-W-G’」だった。Gelt(貨幣)とWare(商品)を、Girl(少女)と Witch(魔女)に読み替えればそのまま成立するのが面白い。

*2:本作の描写から、魔女が次第にその強さを増すということに違和感はない。ただし、なぜ魔女がその強さを増すのか、については、自分はあまりわかっていない。資本主義の分析においては、剰余価値と労働価値説の議論に相当すると思うのだが、自分はこちらの方もあまり理解できておらず、うまい説明が思いつかない。

*3:暁美ほむらについてはもう少し指摘すべき点があるので、ここに述べておく。
まず、暁美ほむら魔法少女としての性質の異質さは強調してよい。彼女はマミのマスケット銃、さやかのサーベル、まどかの弓に対応するような、魔法少女としての固有の攻撃手段を持っていない。彼女が使うのはどこかから取ってきた大量生産の近代的な兵器である。これはある種彼女固有の願いのなさを象徴しているように思える。また、彼女の時間を操作してループを繰り返す、という能力も、要するにさして能力の突出していない個でも数を束ねれば強大な力を生み出せる、というある種の数の暴力を意味するに過ぎない。そう考えると、ワルプルギスの夜暁美ほむらの対立は、最強の個と凡庸な群体の対立であると見做せるかもしれない。(おそらくは、ループを繰り返すたびにまどかが強くなっていった、という本作の不可解な側面も、この観点からはある程度納得いく説明をつけることが可能だろう)

*4:本当にそうなのだろうか。と読み返して思った。少女たちの希望/絶望という系列と、客観的な再生産の仕組みとは、全く別種のものであって、それがたまたま何かの偶然で出会ってしまっただけなのではないだろうか。この場では詳細を議論することはできないが、要するに、資本主義とは必然ではなく偶然によって成立したものなのではないだろうか。

*5:ここで、本作で一番最初に何が描かれたのか思い出してみるのは面白い。第一話の冒頭は、まどかが彼女の願いを一番最初に捨てた場面、すなわち、魔法少女のシステムに外部が無くなったまさにその瞬間なのだ。その限りでは、マミもさやかも杏子も、この時間軸では魔法少女として正しく絶望して死んでいったのだろう。

*6:上の注で述べた説をとるなら、ワルプルギスの夜というよりは暁美ほむらとすべきだろう。