萵苣猫雑記

tayamaの雑記

セカイ系 感想

面白い文を読み思わず膝を打った。

 

擁護にせよ批判にせよ、セカイ系についての定義や言説を見るたびに「なんか違うんだよなあ」と思ってきた。セカイ系っていうのはSF論争みたいなものなんだと思う。どんな定義を他者が言葉にしてもしっくりこない。

 

そして、その「しっくりこねえ〜!皆わかってないなあ、そうじゃないだろセカイ系っていうのはさ〜!」というモヤモヤした気持ちが、次なるセカイ系論を生み出すモチベーションになるんだろう。本書もそういうモチベーションが執筆動機の一つとしてあったんじゃないだろうか

https://www.amazon.co.jp/-/en/gp/customer-reviews/R8AICDXNBG8OU/

 

そうなのだ。「セカイ系」という言葉を聞くたびに、自分も説明される内容への違和感や、かといって自分の考えを言葉にできないもどかしさがあり、そのようなもやもやさえもがこの言葉の流通に吸収されているような気分の悪さがあった。せっかくなので自分もそのような亜流セカイ系論をつらつら書いていく。本来作品を読み直したり裏を取ったりするべきなのだが、今そのようなゆとりがないので、思ったことをつらつら書いていく。

 

***

 

「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと」であり、代表作として新海誠のアニメ『ほしのこえ』、高橋しんのマンガ『最終兵器彼女』、秋山瑞人の小説『イリヤの空UFOの夏』の3作を挙げ、

https://ja.wikipedia.org/wiki/セカイ系

 

上に引用したのはWikiの説明(波状言論の編集部注の引用とのこと)であり、自分が初めて見た時の内容も概ね同じだったと記憶している。

 

自分にとってさらに大きかったのは、この言葉が基本的には蔑称的なニュアンスを持ったものだとどこかで聞いたことだ。一方で、自分はこの挙げられた3作、特に最終兵器彼女イリヤの空が好きだった。自分の好きな作品に付された批判的なカテゴリーということで、この言葉が気になったのだった。いまだに、自分はこの「セカイ系」という言葉を、最終兵器彼女イリヤの空の、明らかに共通した特異な感性をもっており何か語りたくなるような作品群を総称する言葉、としてしか捉えられない。

 

だから、結局は、なぜ自分がこの2作を好きだったのかを、セカイ系という言葉でのキーとなる「中間項」という概念を用いて整理するのが良いだろう。

 

***

 

自分がこれら作品群で面白いと思ったのは、中間項の不在というよりは、中間項が不在な状態で世界がそれでも進み続けてしまうことの違和感が表明されていたことだった。この二つは一見似ていると思われるかもしれないが全く違う。要するに、中間項の不在を結果ではなく前提として考えたい、と言うことだ。

 

あまり歴史はよく知らないのだが、「中間項の不在」は以下のようなニュアンスと併せて語られることが多い気がする。

 

90年代ごろから若者の自意識が肥大化したりゲームに熱中するようになったらしく、人付き合いなどが以前より難しくなったらしい。そんな中、前後して発達したパソコンやインターネットにより、物語の中のキャラクターや顔も知らない誰かなどと、仮想的で妄想的な人間関係を結び、現実からは引きこもって自閉する人たち(「オタク」)が現れたらしい。彼らが好む物語も、自然、そのような自己を肯定してくれるような、彼らに取って都合の良い物語になった。

 

この肥大化したオタクの自我が、狭い世界の物語を世界そのものへと接続するような妄想に行き着いた、というのがいろんな人が語るセカイ系という言葉の基本ラインだと認識している。自閉したオタクの妄想ということで基本的には蔑称だが、オタクに現代的な感覚の代表を見る論者や当事者は逆に、中間項を排除するという行為に肯定的に捉えるわけである。要するに、中間項の意図的な排除という行為があることを前提に、その行為の倫理的な是非を問うている、というわけである。

 

自分がよくわからないのは、この中間項の排除を意図的な行為として捉える、という発想である。

 

意図しようがしまいが、そもそも90年代以降、社会における中間項というのはすでに機能していないと考えるのが普通なのではないだろうか。自分の目に見える現実を謙虚さを持って素朴に描写し、その上で多少社会的な視野を持とうとするのであれば、普通この作品に見られるような描写方法に行き着くのではないか。

 

両作品の該当する描写は、要するに軍事的な情勢(どこと戦争しているのか、なんのために、戦況は、彼女は具体的にどんな装備で戦っている?)が省かれていること、「君」一人が持っている力が現実離れしていることである。後者は一旦置く。前者について、自分の国がどこかの国と戦争をしたり、その準備をしようとしている、相手は誰かわからず宇宙人かもしれない、世界はおおむね今目に見える範囲では平和だが、いつか大きなカタストロフが起きるのではないかという不安がいつもある、というのは、自分にとっては正直、ただの現実を多少戯画的に描写しているようにしか見えないのだが、果たしてそうではないのだろうか。かつてはどうもそうではなかったらしいのだが……

 

私は想像する。きっと「僕」は教室の窓側の席なんかでこんなことを考えている。

 

両親や先生は、努力して立派な人間になり、世界の役にたて、なんていつも言う。そういえば小さい頃に見た特撮やアニメでも、悪の帝国の陰謀は、いつも愛と友情と正義によって砕かれた。僕もそうなればいいってこと? でも、世界なんてわからないな。

 

何かがいつも起こっている。戦争が遠くの国で始まったらしい。みんな、賛成に反対に陰謀に煩いな。もしかしたらこの国も巻き込まれるかもしれないって。でも何をすればいいんだろう。この国のために戦えばいいのだろうか? それともこんな国は捨てて別のもっと自由なところにいくべきなんだろうか? そもそも国なんて考え方自体間違っているんだろうか……全然簡単じゃない。親や先生の時代とは、もう違う。

 

ふと隣の「君」を見る。

 

何だか楽しそうに笑っている。耳を澄ませても、くだらない話だ。どこに遊びにいって楽しかったとか、どこかの誰かが誰かのことを好きだとか。今度告白するだとか、明日どこに行くだとか。それだけで幸せそうだ。

 

きっと「君」は愚かなのだろう、と「僕」は思う。「僕」みたいな難しいことで頭を悩ませたことはないのだろう。世界のことなど考えることのできない子供なのだろう。凡庸な人間で、だからこの世界が今どういう状況にあるかなど理解できず、理解せずに死んでいくのだろう。

 

「君」は「僕」とは違う。

 

しかし、その「君」が実はこの世界の命運を握っていて、

それなのに「僕」のことが好きなのだとしたらーー?

 

***

 

以上が、自分の思う、これら作品群の設定の最も面白い部分である。同時に、これこそこのジャンルの持つ最も痛烈な批評性であると考えている。この、社会制度や経済、法律などどんな枠組みでも測れないくらいに肥大した無意味な世界でそれでもそれと無関係に素朴に幸福である「君」がいること、「君」は偉大な力やどんな役割を付与され理不尽な目に遭ってもその幸福を見失わないこと、そして、それなのに「君」の幸福とはどうやら自分でありその意味で「君」の世界に「僕」も住んでしまっていること。

 

両作品には戦い傷つく「君」が描写され、作品内にある種のミリタリーな意匠が際立っている。しかし、「戦闘」「戦争」といった要素も、究極的にはこれらジャンルの根底的な問題意識(と自分が受け取ったもの)にとって本質的な要素ではないと思う。本質的に重要なのは①「君」には自足した、しかし平凡な(=周囲から孤立しているわけではない)内面的な幸福(=セカイ)があること。そして、②それは「僕」には手に入らないし、「僕」が有意味だと想像するあらゆる世界の中間項(社会制度、軍事、経済)もその幸福と共通項を持たないことだ。しかしそれなのに、③特別でありたいと願いつつ平凡な「僕」が、「君」のセカイに欠かすことのできない部分として含まれていること。これら作品で見られる軍事的な意匠は、②の確認作業に過ぎず、②というのは①の幸福の絶対性の確認作業である。究極的には絶対的な幸福を、自分から、自分ではない誰かが意味もなく得てしまうことが根源である。*1

 

そのため、これら作品で「君」が無条件に自分を好いてくれることの都合の良さや傷つく役割を「君」に押し付けることに対する批判は、こういう自分にとっては的を外しているように思える。それはつまり③が不要ということだが、そうすれば「僕」は家庭環境でも才能でも性別でも適当な項でなぜ「僕」は「君」と違って幸福ではないのかを説明することができる。③はその逃げ道を塞ぐため、むしろ「僕」にとっては都合が悪い。「君」が自分を好きになったというのは、こんな滅茶苦茶な世界の遠く離れた「君」と「僕」でも、何の理由もなく繋がってしまうのだと言う事実であり、絶望的だ。「君」が「僕」のことなど視界にも入れず、ただニュースで見る文字列の一つになってくれたのなら、どれだけ楽だったことか。

 

先ほど保留しておいた、「君」が世界の動向を感情一つで左右できるような膨大な力を持っていること、すなわち夾雑物なしに世界と繋がっていることが、中間項を意図的に排除した描写にはならない、ということの説明がここにある。「君」だけが世界と繋がっていることは、まず第一には、世界には「君」の恋愛感情程度しか意味がないということを強調するだけなのではないだろうか。「世界に意味も理由も向かうべき方向性もない」などと言われるより、「世界には高校生の自撮りに使われて捨てられたタピオカミルクティー程度の意味しかない」と言われる方が、はるかに世界の無意味さが強調されるのではないだろうか。仮にその感情を世界大に持ち上げたとして(イリヤの空での浅羽の内心の変化はそれに近い)、やはりそれは二次的なものに過ぎないのではないか。要するに、最も取るに足らない存在である「君」だけが世界に関与し得て、しかし「君」はすでに完結しており何か新しい行動原理を持ち得ない、という状況はすでに起こっている不在の強調でしかないのではないだろうか。

 

もちろん、私の見るセカイ系にも批判しうる点はある。先ほどからあえて「君」と表記しているが(本来ひらがなにすべきだが変換が面倒なので全部漢字にしている)、「君」は普通少女として表象される。「セカイ」とは、まずは少女が発する舌足らずな「世界」という言葉であるということだ。このわけがわからない世界で得られる幸福を、「幼い」「恋する」「少女」の内面性に仮託することは、随分と都合がいい想定だし、多分嘘だろう。ここで想定される少女はおそらくは現実に存在する女性とは異なっているし、そのような発想が出てくる根本の部分には何かしらの根強い差別的な思想がある、という批判は全く正当であると思う。*2

 

***

 

「君」がこの無意味な世界で「僕」を好きだということ。それは取るに足らないことである。いや、しかし本当にそうなのだろうか? それはただの恋愛感情なのか? それともそれ以上のものなのか?

 

上記した、自分の理解する「セカイ系」は、「僕」があくまで受動的に、不安を抱きながら、この空間をぐるぐる回る物語群である。

 

最後に、別の角度から光を当てるためにも、多少奇異と思いつつ、この文脈で参照されることがあまりないが、興味深いと思うキャラクターを挙げて終わることとする。それは、アニメ版「School Days」の清浦刹那である。特にわかりやすいのが、彼女が学園祭で見た劇中劇の台詞である。

 

違う。たった一度、触れただけ。私の心にしまっておくための、甘美な思い出にするためだけに。その花への想いを言葉に出して、この世界を傷つけるつもりなど微塵もなかったんだ。(9話)

 

自分が好きな人(=伊藤誠)と結ばれるために、それを好きな友人(=西園寺世界)を裏切った彼女に、この劇中劇は響き、かなり深刻に思い詰めてしまう。実際、この場面はその後も、作中でリフレインされる。

 

しかし、「口に出したらこの世界を傷つける思い」とは!……伊藤誠と、西園寺世界を、裏切ることが、世界大の罪だと……? 無論この台詞は西園寺世界という名前にかけられたものであることを差し引いても、この二人の人間性を少しでも知っている人が見れば吹き出さずにはいられないだろう。そんな二人の間にひき裂かれて、世界大の罪の意識にいじらしく葛藤してみせる彼女は、どこか可愛くすら見えてくる。この可愛さはちせやいりやの可愛さに似ている。

 

だが、清浦刹那こそ、筆舌に尽くしたがいカタストロフに終わったこの物語の発端であったことは、しばしば忘れられている。西園寺世界伊藤誠への感情は、元はと言えば刹那の彼への感情だったこと指摘すれば証拠としては十分だろう。西園寺世界の恋愛感情はある意味で桂言葉に、さらにはそれ以外に感染する。その意味で、彼女こそこの物語の空虚な中心である。

 

結果としてどうなったか? 説明するまでもない。この物語世界は最終話で、想像しうる限り最悪の方法によって完膚なきまでに破壊される。彼女一人だけが、その惨劇の届かない遠くに、最後のシーンで映る海のその彼方に、すでに旅立ってしまっている。

 

彼女の思いは、ただの夢見がちな恋心なのだろうか? それ以上のものなのだろうか? それとも、それらは矛盾せず同時に成り立つのだろうか(=世界とは彼女の思い以上のものではないのだろうか)?

 

他の「セカイ系」の作品が想像させて見せた壮大な終末と比して、この惨劇のなんと滑稽で醜いことだろう。一方で何と緻密で論理的に、この悲劇は進行することだろう。しかしそれでも私は、この作品が、ある力を同じ源泉から、裏返しの形で得ていることを、否定できずにいるのだが。

 

 

 

 

*1:イリヤの空の方には多少留保が必要であろう。彼女が浅羽を好きになるのは物語後半であるし、その好意すら仕向けられたものだったということが最後に明らかになる。しかし、この作品をハッピーエンドとして捉えるためには、彼女と彼の感情が世界以上のものだったと考えることしかできないのではないだろうか。また、世界のわからなさ意味のなさ自体は、この設定によりより強調されるわけである。少なくともこのような幸福を彼女が獲得する物語であると考えることはできるだろう。

*2:後続する作品のジャンル(日常系、きらら系、ある種の百合)の流れを、内側から眺められたヒロインの内面的な幸福という概念が、どのように変遷していったか、という観点から考えることはできるかもしれない。また、イリヤの空は、別の注でも述べた通り、この構造に自覚的である。