萵苣猫雑記

tayamaの雑記

『理のスケッチ』 感想?

 


『理のスケッチ』 (https://www.freem.ne.jp/win/game/14883
製作: 捨て鳩さん(http://ngrmds2016.exblog.jp/
※ただし現在のバージョンは1.1

 

 

 ある日、あなたの前にあなたの理想そのものの物語が現れたとして、あなたはその物語に対して、考察でも感想でも解釈でも、何か価値あることを言うことができるでしょうか?

 

 


 私が『理のスケッチ』という作品をプレイしたのは今年の8月で、つまりは4ヶ月も前のことです。4ヶ月も前にプレイしたゲームの感想記事を今になって書いていることに理由がないわけではありません。

 クリスマスに合わせたかった、というのは勿論言い訳です。簡単に言えば書けなかったからです。その理由を考えると、一番最初に書いた通り、この物語が私の理想の物語そのものだったです。

 理想そのもの、というのは少し話を盛っていて、勿論本作にも欠点はあります。それどころか、客観的に見て本作が優れた作品なのかと聞かれても私は素直に首肯することはできません。しかし、この作品が私にとってその方向で出会うことのできた唯一のものだというのは確かです。そもそも立っている土俵が違うだけに、そもそもこの作品を他作品と比較する気がおきないのです。それだけに、この作品が自分に与えたのは感動というよりむしろ当惑で、非常に失礼なたとえかもしれませんが、読んでいる間はまるで並行世界の自分が書いたものを読んでる気分でした。(勿論私の技術は及ぶべきもありません)その意味では、私が本作に対して抱いた感想は「他人事とは思えない」です。私を魅せたのは話の大枠というよりは細かい描写の一つ一つであって、だからまとまった感想が書きにくいものでした。

 じゃあ感想なんて書かなければいいというのは全くその通りです。実際、最近話題にもなりましたが、あまり人に知られていない作品の感想を書くことはかなりリスキーな行動です(個人の意見がその作品の評価を決定づけてしまいかねないという意味で)。が、そういえば8月ごろに感想をいつか書くと言ってしまった気がしますし、そもそもその言葉を言わせるだけの熱量が自分の中に湧き上がっていたということもあって、何かしらアウトプットしたいという気持ちがありました。

 というわけで感想を書こうと思っていたのですが、上のような事情があるため、正直何を言って良いのかわかりません。文章というのは何かしらの共感を少なくとも要求するものですが、私がこの作品に対して感じたことが客観的に多くの人に対して成り立つことだとは思えないのです。

 とはいえ、「自分が感じた特別な感情というものが特別であることなどありえない」、「他の人と共有不可能な感情を抱くなんてほとんどありえない」というのは、ネット全盛の我々の世代には自明のことで、この作品に対してじわじわ増えてきているレビューからしても、このゲームをプレイする多くの人間が私と似たようなことを感じるというのは大いに有り得ることです。あるいは、1人の人間にこんな記事を書かせるようなゲームとはどんなものだろうと興味を持ってくれる方がいないとも限りません。

 こういう事情で、感想記事を書くことにしました。結局まとまったものにはできなかったので、漫然と好きなシーンを述べるだけですが、どうかご容赦ください。もし何か記事に不都合があれば消すので気軽に相談してください。

 


細々とした描写


  出してくるアイテムがいちいち私の好みどストライクです。
 「屋上」、「少年少女」、「哲学」、「文学」、「隠された日記」、「告白」……この程度なら別にどこにでもありますが、本作は更にその先を行きます。
 「盗みの詐称」に関する罪悪感。およそ人間とは思えないような悪魔的な登場人物、「煙草」、「演技」……この辺になってくると無二な気がします。
 挙げればきりがないのですが、他にも冒頭の場面などがそうです。正直に言えば、この場面はわかりにくいです。たとえば、「野崎英理は困っていた。大事にしていた本をなくしてしまったからだ。彼女はその2週間前……」とかすればすっきりとして、より多くの読者を獲得できるのかもしれません。が、この作品はそうしません。この作品はまず英理の様子を客観的かつ公平に描写してみせることから初めて、彼女の内心に本格的に踏み込む前にわざわざ「ここで彼女の思考を少し伺ってみることにしよう」という前置きまで書いています。そのあとも、決してまっすぐと本題である「魔の山」の文庫本の話へと向かわず、「その本をここで失くしてしまったのだ!」と言うまでも言ってからも多くの字数を費やします。この、文章に対する態度、(見当外れかもしれませんが)多少導入がらしくない(冗長な)ものになったとしても面白さよりも叙述の一貫性が崩れないことを優先するという態度が、少なくともノベルゲームにおいてはほとんど見られない態度で、だから私はこの作品に惹かれたのです。

 

 

「スケッチ」と「英雄」

  母親はあまり理知的ではなかったが、行動的であった。母親自身が利他的な慈善な気持ちに富んだ人物かどうかというのもここではさして問題にならなかった。キリスト教ならば、教える本人が自堕落でも神様を手本にすればよかったが、母親は無宗教だった。よって娘が手本にするのは大量の本を集合させた実在しない英雄のことであった。娘は幼い子ども独特のひたむきさで必死で頭をひねったが、それから導き出された解答は母親を満足させなかった。

 娘に答えのない問を与えさせ、それでも考え抜いた答えを辛辣に批評して、娘の失敗を教えてやる。この果のない指導は終わりが見えてはいけないのだ。終わりが見えたとき、母親は美しさが永遠ではないことを知ったときのように教育もまた永遠ではないことに失望してしまうからだ。

「でもやっぱり確固とした答えのない問を強制され続けるほど、辛いことはないんだよ。何をいっても間違いで返されるだろうという確信を、いまさら変えることなんてできっこない。だから私は完全な答えがほしいんだ。それがないと生きていけないんだよ」



  とくに上に挙げた、「大量の本を集合させた実在しない英雄」という言葉が自分は好きです。この場面での英理の感情には共感できる部分があります。
  先程言ったように、本記事でこの作品の内容にたいして深く考えてみようとかそういうつもりはない(しその能力もない)のですが、この「英雄」というキーワードは本作の内容を整理する上で非常に有用な指針になりうる気がしているので、考えたことを漫然と書いてみます。(だれかの理解の参考にならないとも限らないので)

  まず、この「英雄」という言葉は製作者の方が意識的に用いたものだと推測できます。というのも、この作品の主人公の名前は河原「瑛雄」だからです。ちなみに「英」の字は勿論「野崎英理」の名前にも使われているわけで、単なる偶然であるという可能性は低そうです。
  では、本作は上の場面で述べられたように、「英雄」=「完全な答え」=「完全な理」を求めていた野崎英理が、河原瑛雄という英雄に出会って救われる話なのでしょうか? この解釈は間違っていないと思いますが、問題をあまりに単純化しすぎているように思えます。たしかに、彼は最終的には「英雄」になりました。これは親友が述べている通りです。が、いちいち引用はしませんが、彼は一度「英雄」の座から追われてしまっているのです。となれば何故彼がかつて、(偽の)英雄ではなくなり、しかし今再び英理にとっての「英雄」になることができたのかが問われなければなりません。また、救われたのは果たして英理だけなのかという疑問も尤もです。何度もアキオが言っているように、英理は彼にとっての憧れでした。とすれば、彼も同様に救われた(この言葉が悪ければ、何かの問題を解決・解消することができた)といえるわけです。となれば、お互いに不完全な彼らがどのようにして再び立ち上がれるようになったのかが問われなければなりません。
  さて、今の論点をより深く理解するため、この作品のふりーむでの紹介文を見てみましょう。

 

理のスケッチ。それは不完全だけど紛れもなく理の描像。神からすればその描像はあまりにも淡く、人間からすれば出来すぎていると言う。それでも人は理想を描かざるをえない。たとえ不格好でいびつだとしても、時間と技術が足りなくても、筆を手に取りキャンパスの向こうに夢を見る。地平線を見ては、スケッチを描いてそこに向かって突き進む。スケッチと地平線が溶け合うその瞬間を夢という。

 

一人は地平線を見失いスケッチを破いてしまった。もう一人はスケッチは完成されていて、見本である地平線そのものが間違っているのだと執着した。

 

悪魔に好かれた少年はまだ眠っている。天使の愛を否定し続ける少女は夢を見る。そんな二人が手を取り合うまでの物語。


  私の記憶している限り(全然間違ってることはありうると思う)、この作品のタイトルで使われている「スケッチ」という言葉が直接使われているのはこの紹介文だけです。これによれば、今「不完全」とよんだ彼らのあり方を「理のスケッチ」という言葉で理解することができます。「地平線」という言葉の意味をあえて考えるなら、「現実」や英理がいつか言ったような普遍性に還元できないような自分の人生の問題のことだと言えるでしょう。それを見失いスケッチを破ってしまったのがアキオであり、地平線そのものが間違っていると執着したのは英理です。こうしてタイトルまでたどり着いた今なら、「英雄」=「理」というキーワードから本作を理解することがさして無謀な試みではない気もしてきます。
  というわけで、このような問題設定で本作を読み解いてより深く理解できればと思っているのですが、まだ本作の全貌を理解しているとはとても言えないので、この作業はあまり進んでいません。尻切れトンボで申し訳ありませんが、この作品が好きな人にとって何かの指針となれば幸いです。

 

※現状把握してるこの方針の問題点:

  • もう一つの明らかに重要な対立軸である「屋上」と「教室」との接点がそこまで明らかじゃない
    「地平線」を「スケッチ」できるのは「屋上」にいるときだけ。と言ってしまえばそれまでなのですが、これだけではまだ足りない気がしています。下に挙げる親友の発言ももっと汲むべきでしょう。その他、クオリアや道徳論などに対して本作で展開された議論も同様です。
  • 「ピエロ」との関係
    無理に二項対立に持ち込む必要はまったくないのですが、「英雄」という言葉と対立して用いられている事が多い「ピエロ」という言葉について何も考えないというわけにもいかない気がしています。
  • そもそもこんなことする必要があるのか?
    本作のキャッチフレーズ(?)は「前半は哲学、後半は文学。ラストは言葉を伴わない。」です。哲学=物事を普遍的にまとめ上げること、文学=言葉を媒介にして他人の人生を見ること、とある通り、この決着は「言葉を伴わない」ものだとも言えるわけです。実際、普通に見れば英理が何に救われたのかなんてことは自明であって、それをわざわざ前半だけにしか妥当しない方法論で読み解こうとするのは本作に対して不誠実な態度である、と言えないこともないわけです。

「スケッチ」という言葉について:
 なにかある完全なものに対して、それを人間が不完全でも形にしようとする営みを「スケッチ」と表現するのはこれと言って変わった言葉遣いではないです。よって、この言葉の来歴に気を払う必要はないと思われます。仮にそれができたとしても、「カレーニン」という言葉の出処と同様に、この言葉を『存在の耐えられない軽さ』の中での用法に照らし合わせるとかそれくらいがせいぜいでしょう。
 なので、個人的な興味関心に近い話になってしまうのですが、いわゆる実存主義(というよりは現象学存在論)の用語として知られる「投企」という言葉は(日本語の字面の意味不明さとは対照的に)、フランス語(projet)やドイツ語(Entwurf)ではともに「下書き」、場合によっては「スケッチ」の意味を持ちます。私はこの辺に興味があるので、それを掘り下げるという側面からも、この作品での2人の「普遍的にまとめ上げることが困難な」「人生」に対する態度が「スケッチ」と呼ばれたことをもっと掘り下げてみたい気持ちはあります。

 

「親友」について


  散々英理とアキオについて語りましたが、実はこの作品で私が一番好きな登場人物は「親友」です。そのきっかけとなったのが以下に引用する場面です。といっても、おそらくこの台詞は現在のver1.1では削除されているので、もしここに載せることに問題があれば、コメントを頂ければ削除します。実際、この変更は「親友」のキャラクターの立ち位置を大きく変える変更なので、今更こっちを載せることは製作者の方にとっては非常に不快でかもしれないので。(どちらが良いかと聞かれればver1.1の方が良いと思うのですが、どちらが好きかと言われるとver1.0です。というより、この作品で一番好きな台詞がこれです。変更の経緯は製作者である捨て鳩さんのブログにも書いてあるので参考までに。http://ngrmds2016.exblog.jp/27843265/

 

 「屋上に行くんだろう? 屋上は俺のようなものにとっては手の届かない聖域なんだ。あの場所はあまりにも脆すぎるよ。大体今の学校に屋上なんて必要ないのさ。実用的な空調完備の設備さえ置く場所が確保されていればそれで十分。生徒が語り合う場所なんて用意する必要がないんだよ。
 いわばそれは計算外、設計外のイレギュラー。設計者は生徒が憩いの場として利用できるように屋上を作ったんじゃない。偶然の産物! 屋上のために学校はあるのではない。


 それに対して俺のいる場所は教室のような地に足の着いた生活の場所なんだ。そこでは生徒がひしめき合い絶えずつまらないことでせせら笑ったりたそがれたりしてる。知ったかぶったやつはそれを仮面の微笑みなんていうけどな、まぎれもなくその仮面は真実なんだぜ。その下に本当の顔なんてないんだよ。空虚なんだ、教室においてその疑いは意味をなさない。仮面の微笑みは紛れもなく心からの微笑みさ。


 間違っていることを言ってるか俺は? ははは! お前はやっぱり子供じゃなくて立派な大人だな! 言わなくてもその不服そうな表情を見てみればわかるよ。

 

 ……まるで俺の説明は人間から感情を都合の悪いものとして隠そうとしているように見えるんだろう? その通り! 俺にとってその意見を受け入れない人は都合が悪い人間なんだよ。表現と感情のズレを持っている人間というのがね。いやらしくも仮面の下からまるで本当の自分の表情がありますといわんばかりにちらちらパフォーマンスをする女々しい奴らがね。言いたいことがあるなら口で言えってんだ。


 それをいつまでたっても折り合いをつけようとしない未熟な人間が幼く見えて仕方がないんだよ。それは本来子供の内に済ますプロセスなんだ。膝が擦りむいているから泣いてるのかい? それは悲しいというのだよ。悲しかったら誰かに助けを求めようね。こんな感じで教えてあげないといつまでたっても子供は動物のままさ。せいぜい痛みに金切り声をあげるだけで、助けが必要だとか自分からいいやしないからね。慟哭することしかできない子供は教育しなければならない。言葉を用いて必要なことをなせ。発話から意図することを学べ。


 なに、それができないだって? 甘ったれてるな。ムチでピシャリ! 暴力に対して厳しい現代ならどうするかな? まあ言葉で折檻するのが一番かな。

 ……怒声罵声罵詈雑言、理不尽な語の塊を矛盾含めて一斉にぶつけてがんじがらめにしてやるのさ。まあそのうちその牢獄なしには生きれない身体になってるわけだ。

 

 ――移ろいゆく魂は言葉の牢獄に宿されし、精神飛翔の暁には霧散して消える幻かな

 

 はは! どうやら俺は詩作の才能があるらしいぞ!」

 

  「これで決別というわけではないからな! 俺とお前はもしかしたら家族よりも彼女よりも長い付き合いになると思うぜ。ただの腐れ縁、という言葉で表現しきれないのさ俺達の関係は。今の時代なら家族よりも俺とおまえの関係は根深いものだ。かつては俺とおまえの関係は逆だったんだがな。今では俺はお前なしには存在できないし、お前は俺の存在なしでは生きづらいと思うぜ? だからこれでお別れなんて軽々しくいうんじゃないぞ。女が原因で関係がこじれたなんてごめんだからな!」


 まず、この思わず音読したくなるような長台詞です。日常会話からすると到底ありえませんが、こういうのが自分は大好きです。
 そして、話は個人的なことにまたもやなるのですが、この台詞を私が好きな理由は内容にあります。「屋上」に対する考察や、「仮面」には中身なんてないということ、そして、それが大人になることだということ、それが見事に1つの台詞として表現されていて、感激したことを憶えています。(それどころか、どこにも公開していないのですが私自身実は全く同じような(しかし表現力ははるかに劣る)内容の文章を書いたことがあります。こういうところからもやっぱりこの作品は他人事だとは思えない)
 また、この台詞は本編と無関係だとも言えません。たとえば「屋上」と「教室」の対立はこの台詞をもってより深く理解することができます。
 もう一つ、「仮面」にその中身があるのかどうかということをこの場面で述べることはは本編のその後の展開について大きな意味を持ちます。たとえば、その後の場面でアキオが鉄壁に思われた屋上の英理に踏み込むきっかけとなったのは、彼女の「涙」なのでした。この「証拠」は「優しい」ものですが、それでも、彼はこの証拠がなければ踏み出せませんでした。でも、「涙」や「日記帳」が仮面(表現)であることもまた事実であり、その意味ではこの時点のアキオは親友の発言を超えることはできていません。親友が「俺の存在なしでは生きづらい」と言った意味の一端をこの例から理解することもできる気がします。(これは妄想である可能性も高いですが)
 この、「行為」と「内面」という軸も本編で重要な意味を持っている気がします。個人的に興味がある分野でもあるので、これも掘り下げてみたいです。

(関係あるかはわからないのですが、製作者の方はサールに詳しそうなので、その方面からアプローチするのも良いかもしれません。が、個人的に、英米哲学には苦手意識があるのでできれば別の方向から攻めたいと思っています。本作においても「演技」という一種の「引用」が1つのキーワードなので、むしろ逆のデリダの側から見るのも面白い? かもしれません)

 

 

 


 結局この物語の核たる部分には大して触れられず、その周りをぐるぐる回っているだけみたいな記事になってしまいましたが、とりあえずここで筆を置きます。

 

 何はともあれいい作品なので、この記事を読んで興味を持った方はぜひプレイしてみてください。