萵苣猫雑記

tayamaの雑記

『serial experiments lain』 考察メモ(2) レインと玲音

 

 

 前回は、英利の計画まわりの話をしました。今回は、予告通り、今回は「玲音とレイン」について考えます。その際、12話の英利と玲音の会話についても考えてみます。

 

レインに関する情報の整理

 説明の都合上、レインの方を先に考えます。まず、彼女に関する作中の情報を整理するところから始めましょう。
 
 レインが初めて登場するのは2話の冒頭です。アクセラの少年がサイベリアで彼女を目撃したシーンです。同じ日に、ありすたちも玲音とよく似た少女を目にしていることから、その日その場所に彼女がいたことは間違いないでしょう。
 
 しかし、玲音にはそんなところに行った記憶は一切ありません。2話以降でも、特にサイベリアを中心として、タロウやJJなどが彼女を目撃しているような描写がありますが、やはりこれも玲音の記憶とは合致しません。
 
 この、まるで玲音が分身したかのような奇妙な現象のトリックは9話のレインとタロウとの会話で説明されます。
 
 

レイン「ワイヤードの中に、あたしがもう一人いるかどうか、それはあたしにもわからない。でも、このリアルワールドにあたしがもう一人居るなんてことは絶対にない」
レイン「肉体を持つもう一人が姿を見せたのはあのクラブだけ。あそこにいた人の記憶だけを操作すればいいんだよね」

タロウ「俺じゃないよ。でも、JJのとこに流されてくるデータに、こういうイフェクトがあるっていうのは、知ってた」(9話)

 


 直接根拠となる台詞を引用するのは難しいのですが、この場面周辺の流れを丁寧に整理すれば、玲音とレインが同時に存在していた原因はサイベリアの音楽にあるとわかります。サイベリアの音楽には特殊な「イフェクト」があり(たとえばレインの幻覚を見せるといった)、それが、彼女が同時に存在することを可能にしていたということです。つまり、このレインは作り物だということです。
 
 では、レインをそういった小道具によって作られた幻覚だとみなせば作中の出来事全てを説明できるのでしょうか? もちろんそんなことはありません。
 
 私たちはさまざまな場面で、「レイン」がワイヤード上での玲音のアバターのように用いられているのを見ています。6話でホジスン教授と話すのも、7話で橘総研の男と話すのも、8話で「神」と話すのも、9話でタロウを追い詰めるのも、10話で英利と対峙するのも、「レイン」です。ここでの「レイン」の行動は「玲音」のそれと一致しており、「レイン」は「玲音」の別人格のように描かれます。この「レイン」が、さっきのサイベリアでの「レイン」とは異なる(物理的な)原理で生み出されているのは明らかでしょう。

 


レインの存在論的定位

 とすると、私たちはこの2人のレインを分けて考えるべきなのでしょうか? つまり、例えばレイン1とレイン2に分けて考えるべきなのでしょうか?
 
 その考え自体を間違いだと切り捨てる根拠はないと思います。いま確認したように、作中ではこの2人の存在の依って立つ基盤は異なっているわけで、2人が全く別種の存在だという主張には理はあります。
 
 しかし、やはり、この異なって見える二つの存在を全く同じ外貌で(あるいは全く同じ「レイン」という名前で)描いた製作者の意図を汲むべきだと私は考えます。つまり、この2種類の異なって見えるレインを同じものだとして解釈するべきだということです。
 
 実際、それは不可能な解釈ではありません。さっきさり気なく括弧に入れて書きましたが、レインが2種類いるように見えるのは、私達がそれを「物理的」な観点から見たからです。「レインは2人いる」という判断を下した時、私たちは無意識に人間や人格と言ったものを物理的実体と同一視しました。それゆえ、私たちは「物理的には音楽という現象で生み出された実体を持たない仮象」と「岩倉玲音の肉体に宿った意識の1人格」を区別しなければならなかったのです。
 
 しかし、物理的な限界を超越しようという計画を立てるキャラクターが登場する作品で、そんな「物理的原理」を絶対のものだとみなす理由なんてどこにもありません。もし私達が、上に述べたのとは違った新しい人格の定義、すなわち、レインの存在原理(存在論的定位)を適切に決め、本来分裂するはずだった彼女を1つの存在として扱うことを可能にしたなら、その試みは間違いだとはいえないし、もしそれでこの作品についてより多くのことを説明できるのなら、正しい選択だとさえ言えるでしょう。

 

 では、そんな解釈を可能とする「存在原理」とは一体どんなものでしょうか?

 

 この選択にも自由度があります。メタな話をするなら、私たちはすでにその1つを無意識に使っています。私達が玲音とレインを区別できているのは、彼女の態度や演技が明らかに異なっているからです。つまり、私たちは「外見や態度や表情が異なるならそれは別の人間」という原理をもとに彼女たちを区別しているわけです。これも立派な、「レインを1つの存在として捉える」原理であるといえます。今はメタな話をしましたが、この2人の作中での態度の違いはタロウなどにも指摘されているので、この原理を作中の現象に適用する合理性もなくはありません。
 
 とはいえ、こんな見方で満足するわけにはいけません。私たちが求めているのは単にこの条件を満たす解釈ではなく、作中に根拠も一応はあり、それでいてこの作品について多くを語ってくれるような本質をつく解釈です。
 
 その意味では、最も「正解」に近いのは次のような解釈なのかもしれません。
 

玲音「人は人の記憶の中でしか実体なんてない。だからいろんなあたしがいたの。あたしがいっぱいいたんじゃなくて、色んな人の中のあたしがいただけ」(12話)


 要するに、レインを1つの存在たらしめるのは、「人間の実体を記憶だとみなす」という原理だという解釈です。つまり、他人の記憶と一致するか否かがレインをレインだとみなす判断基準だということです。人間を人間とみなす原理がこのようなものだとすれば、別にレインが複数いても問題ないということになり、逆説的ですが、これは複数いるレインを1つのものとして統合することを可能にします。「記憶」というのは『lain』のキーワードの1つであることからも、納得のいくものだと思います。
 
 しかし、私はここでもう一つの解釈をとろうと思います。それは次のような説です。

 

玲音「あたしは何もしないよ。あっちと、こっち側と、どっちが本物とかじゃなく、あたしはいたの。あたしの存在自体が、ワイヤードとリアルワールドの領域を崩すプログラムだったの」(12話)


 要するに、それが「リアルワールドとワイヤードの境界を壊すプログラム」である限りにおいて、レインはレインである、ということです。とはいえ、「プログラム」と言われても何のことだかわからないので、簡単に言い換えておきましょう。「プログラム」というものは、結局のところ何かの目的を達成するために作るもののことなので、この概念の本質は「目的性」です。この言い換えを用いると、レインがレインであることを識別する原理とは、「それが同一の目的を持っているか否か」になります。
 
 この説も、複数いるレインが1つの存在である説明を与えます。多少飛躍はありますが、この説の言っていることは、それぞれの存在はその生存する目的があり、その目的を達成する行動を取る限りにおいてその存在だとみなされるということです。だから、それが「ワイヤードとリアルワールドの壁を破壊する」という目的を満たすために行動しているのならば、その物理的基盤が幻覚であろうとある個人の肉体であろうと、それは「レイン」だとみなされます。また、さらに言えば、もともとは別の存在だったはずのある個人に対してそういう「目的」を植え込むことで、その人の中にある存在を「インストール」することができるわけです。つまり、この存在はその物理的基盤を移し替えていくことができます。これが、私が出したもう一つの解釈です。


(もちろん、「目的」を狭い意味に捉える必要はありません。誤解のない範囲内では、「存在理由」や「生きる意味」みたいに捉えて大丈夫です)
 

 さっきも書いた通り、この、「記憶」と「目的」の二つの解釈でどちらがより正しい(この作品で直接言われたことに則している)かときかれたら、私は最初に挙げた、「記憶」解釈のほうが正しいと答えます。それでも私が2番目の解釈を取ろうと思うの理由は次のとおりです。

  • この作品に「記憶」という側面からアプローチする方法は不必要に大きな困難に立ち向かわなけれならないから。(この理由は、いままで私がこの作品の最重要要素である「記憶」にほとんど触れなかったことにも関係あります。余裕があれば詳細を記事にまとめようと思います)
  • 結局のところこの二つの見方はそれほど大きく変わるものではなく、後者の解釈を取ると多少の齟齬はでるものの、それらはあまり本質的ではない上に、こちらの解釈をとるほうが遥かに見通しがいいから
  • 2とほとんど同じだが、この「記憶」という見方は最終話で否定されるから

 


 この3つの理由に対する根拠は今の段階では与えられませんが、おそらくは説明を進めるうちにわかっていただけると思います。なので、納得できない方がいるかもしれませんが、後者の説で進めていきます。

(もしかすると、引用した箇所がレインではなく玲音に関係するものだということが気になっている方がいるかもしれませんが、これも後で説明します。簡単に言うと、この当時の英利も玲音も、実は玲音とレインの違いを理解していないのです)


英利ふたたび

 前節では、レインの存在論的定位について確認しました。得た結論は、レインとはある目的を持った存在であり、そうである限りにおいてレインである、ということでした。レインをレインたらしめる存在原理は、「それが同一の目的を持っていること」でした。

 実は、この存在原理を用いて解釈できる(正確に言うなら、この存在原理を用いなければ1人の人間とみなすことができない)キャラクターがもう一人います。もちろん、英利政美です。それは、以下のことを確認すれば十分でしょう。

  • 作中で登場する英利はプロトコルに組み込まれた「プログラム」である
  • 英利は遍在している。原理上彼が常識的な意味で「1人」である保証はどこにもない。

 では、彼の「目的」とは何でしょうか? 作中で特に明確に語られているわけでもなく、そもそも「目的」という概念自体私が勝手に導入したものなのでしっくり来るかどうかはわかりませんが、「人類の進化」とでもしておけば特に問題はないでしょう。

 

英利は何を間違えたのか

 さて、以上の準備を元に12話の後半の玲音と英利の会話を読み解いていきましょう。その上で、彼が何を間違えた(もう明白だと思いますが)のか考えていきます。これが「玲音」を理解する鍵になります。

 長くなりますが引用します。(ありすの言葉はカットしました)

玲音「あなたができたことは、ワイヤードからデバイスを解放すること。電話とか、テレビとか、ネットワークとか、そういうものがなくちゃあなたは何もできなかった」
英利「そうさ。それは人間の進化に伴って生まれたものじゃないか。最も進化した人間はそれに、より高い機能を持たせる権利がある」
玲音「その権利、誰がくれたの?」
英利「ーー」
玲音「(中略)集合的無意識を意識へと転移させるプログラム。本当にあなたが考え出したことなの?」
英利「何を言いたいのだ。まさか、まさか本当に神がいるなどと」
玲音「どっちにしろ、肉体を失ったあなたにはもうわからないこと」
英利「(中略)僕が君をこのリアルワールドに肉体化させてあげたんだぞ! ワイヤードに遍在していた君に、自我を与え、それに」
玲音「あたしがそうだとしたら、あなたは?」
(中略)
玲音「あなたは確かにワイヤードでは神様だった。じゃあ、ワイヤードができる前は? あなたは、ワイヤードが今のようにできるまで待っていた、誰かさんの代理の神様」

(12話)

 

 結論から言ってしまえば、ここでされている話は至極あたりまえの議論で、要約すると、「手段/目的という連関で人間存在を定義してしまったため、英利は自分自身が何か高次の目的のための手段であることを否定できなくなってしまった」ということです。具体的には、英利は「集合的無意識を意識へと転移させるプログラム」=「レイン」を作りましたが、彼自身も何か上位の存在によってプログラムされたものであるということを否定できないということです。

 問題はなぜこれらの事実が英利にとって致命的なのか、です。これは以下の2点にまとめるられます。

 

  • 彼の目的は、人類を進化させることで、それは具体的には、人間が何か上位の存在によって規定されているという現状(最大のものは「唯物論の言葉」)を打開しようとすることを意味する。彼は確かに、「唯物論」すなわち物理的拘束からは自由になれた。しかし、その際に彼は「プログラムとしての人間」、すなわち、「目的によって規定される人間」という概念を使用してしまった。なので、結局、彼は何かに規定されてあるという人間の状態を乗り越えることができなかった。

  • 上の点は基本的に地球上の誰もに対して当てはまるので、決定的な批判とはなりえない。英利にとって更に問題だったのは、彼が肉体をすでに捨ててしまっていたこと。彼は、人間が目的論的な存在であるということを決めてかかり、完全にそういうものに自分を置き換えてしまった。だから、彼は間違いに気がついてもやり直すことができない。

 注意してほしいのは二番目の理由です。これは、直接には上の「肉体を失ったあなたにはもうわからないこと」という言葉の説明になりますが、この批判が彼にとって決定的な意味を持ち得た理由は、単に「肉体を失っ」てしまったからではなく、その際に自分をプログラムにしてしまったからです。

 この微妙なニュアンスの違いは非常に重要です。この考察記事がこんなに長くなっているのはこの微かな差にあると言っても過言ではありません。
 
 彼は実のところほとんど間違えていなかったのです。「肉体が人間の進化を留めている」=「人間は肉体を超える事ができる」=「人間にとって肉体は本質的なものではない」という主張自体は別に間違っていませんでした。その端的な証拠が「玲音」の存在です。次回説明しますが、肉体を与えられたことで生まれたにも関わらず、彼女に肉体は必要ありませんでした。なので、この12話の場面は、「ワイヤードと肉体」という対立軸を立てて肉体の方に軍配を挙げるようなものではなく、すでに「肉体」という旗は下げられている前提で、しかし「ワイヤード」の方も間違っているというシーンなのです。
 
 英利に間違っていたところがあるとすれば、自分自身にとって本質的な部分がすべて目的論的に記述できるということを信じきれなかったということです。これは正しい正しくないではなく信念の問題であって、だから、英利の提唱している説自体は何も間違っていません。ただ、そこには英利が英利だと信じる英利が含まれていなかったというだけのことです。
 (もちろん、普通の人はそれでも英利に共感できるだろうと思うので、その限りで彼が間違っていたということは可能です)


玲音とは?

 上で英利について書いたことをそのまま岩倉玲音に対して当てはめると「玲音」の存在が浮かび上がってきます。
 
 英利は自分を完全にプログラム化できると考えていましたが、そうしきれない残余が英利政美という存在の中にはあったということに12話後半で気がつきます。同様に、岩倉玲音という存在も、「ワイヤードとリアルワールドの境界を壊すためのプログラム」と定められましたが、そこにはこの目的に還元しきれないような残余がありました。これが「玲音」です。

 具体的には、中学生で、内向的で、ありすの友達で……といった存在です。しかし、よく考えてみるともう少し複雑です。

 再び英利の場合を考えてみましょう。英利は12話後半で上に書いたような事に気が付き、暴れますが、実はこの英利でさえプログラムなのです。つまり、この英利は英利ではなくエイリだということになります。同じことはやはり玲音にも言うことができて、それを「レイン」と名付けるかどうかはともかく、今挙げたような「玲音」の諸特徴をすべて「レイン」の側にもたせること、プログラムとして記述してしまうことは可能です。

 しかし、全てをレインに還元し切ることはできません。では、最後に残るものとは? それは、「玲音」が「玲音」にとって存在しているということ、今この記事を読んでいる人が自分で自分の存在を疑うことができないほど確かなものと考えているのと同じ意味で、「玲音」が「玲音」にとって存在しているということです。
 それは、この物語の主人公が「玲音」であったことを意味します。この物語は全てが「玲音」という少女の主観で綴られた1人称視点の物語だと言うことができ、それゆえに、視点である彼女の存在を私たちは疑うことはできません。彼女の存在は、私達の人生にとって私達が前提であるのと同じ意味で、この物語の前提なのです。
 
 しかし、あらゆる性質は与えられた瞬間に彼女から奪い去ることができます。その意味では、この物語の進行には「玲音」の存在を一切必要としません。

 何も持っていないはずなのに、「存在」だけはしている彼女。物語には何もかかわらないはずなのに、彼女がいなければ何も始まらない存在。絶大な力とリンクしていながら、あくまで平凡な女子中学生としての精神構造しか持っていない少女。だからこそ、彼女はこんな問題提起をしつづけます。

 

「あたしって誰?」(13話)

 

 次回は、この問が『lain』という作品に対して持っている重要性を確認した上で、「玲音」がこの問題に対してどういう答えを出したのかについて、13話を題材に可能な限り考えていきたいと思います。

 

 


補足1


 玲音、レイン、英利の考え方が最も如実に現れているのが10話次の場面です。絶対にどこかで使いたかったのですが、タイミングがなかったのでここに置くことにします。(私はこのシーンを『lain』の作中で3本の指に入るくらい重要なシーンだと考えています)

玲音「もう一人の……」
英利「え?」
玲音「もう一人のあたしが……」
英利「もう一人じゃない。本当の君さ」
レイン「どっちでもいいよそんなの」
(10話)

 

補足2:本作での「記憶」概念について

『serial experiments lain』 考察メモ(1) 英利の計画とその周辺


 無謀ですが、アニメ、『serial experiments lain』の考察をやってみました。久しぶりに何話か見返したので。

 

 記事は全部で3つになる予定です。(1つずつ書いていくつもりなので、もしかしたらあとになって書き換えるかもしれません)


 本記事では英利の計画周辺、つまり、本作のSF的な部分の考察をします。
 SF要素が本作にとって決定的だとは思えず、どちらかと言うと本筋からは外れるうえに辻褄合わせがとてもむずかしいですが(結局いくつも恣意的な仮定を入れました)、それでも無しで済ますというわけにはいかないので、まずこの記事から始めたいと思います。


英利の肉体観(参考)

 最初に、参考のために英利が肉体に対して抱いているアンビバレンツな態度について確認します。あくまで参考なので、面倒なら次節まで飛ばして頂いて結構です。

 

 人が肉体を捨てようとする動機は色々あります。たとえば、病気でつらいとか、歳を取って醜くなるのが嫌だとか、容姿に自信がないとか、永遠に生きたい、などなど。

 

 これらが前提にしているのは、「人間には肉体と魂があって、魂のほうが本質的である」みたいな考えです。ある人間を規定するものは魂であって、非本質的な延長である肉体は人間が「本当に、本来的に」生きるのには必要がない。だから、それが害をなすのなら捨てても問題はない。みたいな考えが今挙げた例の根底にはあるわけです。

 

 英利政美の肉体忌避も基本的にはこの延長上にあります。しかし、そこには少しだけ異なった観点が導入され、それが彼の持つ両義的な態度につながります。

 

 では、彼の考えを見てみましょう。

 

「人の肉体はその機能の全てを言語化し、唯物論の用語によって余すことなく記述することができる。肉体も機関に過ぎない。その物理的な制約が人の進化を留めているのだとしたら、それは人という種の終わりをいもしない神によって決定づけられているようなものだ」
(12話)


 ここでいう「唯物論」は、「機関」と彼が言っているように、「決定論」という意味で捉えて問題ないでしょう。

 

 これは、ざっくばらんに言えば物理的運命論です。たとえば、私達の身体は脳を含めて全て原子でできていますが、原子というのは要するに物理法則に従って動く小さなボールなので、初期配置さえわかってしまえばその後の動きは完全にシミュレーションできます(=「唯物論の用語で記述する」)。私たちは普段自分の意志で行動しているように思えますが、この見方からすると、実際は身体の分子が勝手に物理法則に従って動いているだけなので、意志や自我なんてものは幻だということになります。

 

 さて、彼はこのような唯物論を、「進化」を留めている「物理的な制約」とみなしています。そして、肉体から開放されれば「進化」できると考えています。そして、彼はその「進化」を目指すわけです。

 

 しかし、このような態度は一見すると妙です。というのも、

 

  •  もし物理的世界が上位だとすれば、先程の「意志」の議論と同様に、英利の「進化」への行動すら最初から規定されていることになる。なので、もし本当に進化できるとすれば何かしらの形で人間の自由意志が保証されなければならない。実際、ケンジントン実験などで超能力の存在自体は認められている。(12話で玲音が英利に対して反論しますが、この話とそれとは直接関係ないと私は思っています。この場合は「いもしない神」によって決定づけられているだけで、神の存在はでてきません。12話の問答に対する私の解釈は次回説明します)
  •  しかし、自由意志が完全に保証されるのなら、物理的現象はその反映に過ぎない。物理的な現象は人の意志に完全に服従しているのだから、人間が物理的な現象に規定されるというのは変だということになり、唯物論が人間の進化を止めているなんてことは言えない。

 

 ということで、英利は、今現在のところ、人間が完全に物理世界に従属しているとは考えていませんし、かといって、人間の意志が物理的世界を完全に凌駕しているとも考えていません。現状、人間はほどほどに物理的で、しかし、一応の自由意志はあるということです。つまり、英利は肉体に対して両義的な態度をとっているのです。
(実はどちらかに完全に寄せて解釈することもできなくないとは思うのですが、話が複雑になるのでその方向で考えるのは諦めました)

 

 以下では『lain』のSF的な部分の考察をしてみようと思っていますが、そのとき「意識」や「無意識」という言葉が出てくると思います。しかし、私はこの言葉に対して内実を与えることはできそうにありません。とはいえ、無視するにはあまりに大きな区別なので、よくわからなくなったときはこの意識/無意識の対立を今挙げた意志/物理に置き換えてみてください。そうすれば少しはわかりやすくなるような気がします。

 

 本当なら、英利の使っている概念を分析して、このあたりの用語をしっかり統一するべきだと思いますが、その力は自分にはないことに加え、確証を得るのが非常に難しいので、下の考察では原作の表現に近いものを使っています。実際、必ずしも「意識/無意識=意志/物理」が成り立つとはいえず、場合によっては「本来的/非本来的」みたいな対立に置き換える必要もあると思います。「参考」としたのはそのためです。

 

英利の仮説

 さて、ここからが本論です。まず、英利が抱いてる世界観についてまとめます。といっても、彼の考えはほとんど正確だと私は思っているので、これは『lain』の世界設定の考察でもあります。

 

「橘総研の主任研究員だった英利政美は、地球を覆うニューラルネットワーク仮説をさらに進化させ、地球上の人間は全て、デバイスすらも必要なくワイヤレスネットワーク上に無意識下に配置されるという仮説を発表した」(9話)

 

 これが、英利の提唱する説です。

 

 内容はそこまで複雑ではありません。彼が言いたいことはこの言葉そのままで、つまり、人間の無意識は何もしないでもワイヤレスネットワークに接続しているということです。
(前節に書いたとおり、意識と無意識の違いについては気にしないことにします)

 

 繋がるためには何かしらの媒体が必要だと考えられますが、それが「シューマン共鳴」です。

 

「地球には、地球自らが持つ固有の電磁波が存在する。電離層と地表との間で、ELF帯に8Hzの周波数帯で常に共鳴が起こっている。これをシューマン共鳴と呼ぶ。この地球が常に放っているいわば地球の脳波は、人類にどれだけの影響を及ぼしているのか、未だにわかってはいない」(9話)

 

 要するに、人間の意識は8Hzの電磁波を用いて通信をすることができるということです。同じく9話でイルカが超音波によってネットワーキングを行っているという話がありましたが、これに近いです。そして、おそらく、これがワイヤードに変なノイズが紛れていた原因です。(もちろん、実際には地球上で8HZの共振電磁波帯があるからと行って、そこで通信できることにはならないと思います。なので、このへんは私の強引な解釈が入っています。しかし、脳波による通信というのに近いものはKIDSシステムでも実装されているので、全く間違っているということもないと思います)


第7のプロトコル

 以上のように整理すると、英利が第7のプロトコルと呼んでいるものの正体も何となくわかります。その前にまず、プロトコルについて簡単に説明します。

 

 本作でも言及している場面がありますが(8話)、プロトコルとは通信を行うための取り決めのことです。たとえば、郵便の場合は宛名と住所と郵便番号を書いてポストに投函することで相手に手紙を届けることができますが、これもプロトコルの一種と言えます。コンピューターネットワークにも似たような取り決めがあり、私達がとくに困難なく様々なデバイスで通信できているのはそのおかげです。そして、コンピューターネットワークで用いられるプロトコルの中で最も有名なものが本作でも出てきたIP(Internet Protocol)です。

 

 プロトコルが、「異なるデバイスでも通信できる」という機能を提供することを理解するのに重要なのが、プロトコル・スタックという考え方です。これは、インターネットのために1つのプロトコルを決めてしまうのではなく、機能を細分化、抽象化した上でそれぞれを独立の層に分け、下位のプロトコルブラックボックス化するように設計するという考え方です。たとえば、インターネットで一般的に使われているプロトコルの場合、以下のように分けます。

 

  • 「物理・データリンク層」(簡単には、物理的に繋がった隣接ノード間の通信。伝送媒体の違いも考慮する。Ethernetなど)

  • 「インターネット層」(「物理・データリンク層」で実現された隣接ノード間の通信は前提として、ネットワーク上の任意のノードから任意のノードへのパケットの配送を行う。IP)

  • トランスポート層」(「インターネット層」で実現されたエンドツーエンドの通信を前提として、通信の信頼性を保証する(TCP)。あるいはほとんど何もしない(UDP))

  • 「アプリケーション層」(以上で実現された通信の上にネットワークアプリケーションを作る。HTTPなど)


 上にあるように、IPというのは狭い意味ではインターネット層でエンドツーエンドのパケット配送を行うプロトコルです(実際は、インターネットのプロトコル全体を指してIPということもあり、本作ではこっちの意味で使われている気がします)。

 

 特に重要なのは「インターネット層」と「物理・データリンク層」を分けたことで、これにより、インターネット全体での配送の取り決めを変えることなく、物理的な伝送媒体を変えることができます。インターネット層のプロトコルからすると、隣接ノード間での通信を保証してくれれば、下のレイヤーの物理的媒体も、そもそもノードを何にするかの選択さえどうでもいいのです。(一般に、インターネットは電気的に情報を送信することが前提だと考えられているように思えますし、実際は殆どがそうなのですが、今言ったことからすると、極端な話、インターネットの物理層に全然別の媒体を利用することさえ可能です。たとえば、皆さんは今このページを見るためにインターネットを使っていますが、物理・リンク層として郵便を採用することも原理的には可能です。このような性質がインターネットが爆発的に普及した原因の1つです)

 

 さて、以上長々と説明してきましたが、これで英利が「第7のプロトコル」としてどういうものを考えていたのか何となくわかってくると思います。

 

 確認ですが、英利の提唱していた説は、「人間の(無)意識はシューマン共鳴という物理伝送媒体を使って通信できる」というものでした。だとすれば、第7プロトコルの「シューマン共鳴ファクター」とは、この意識間のワイヤレス通信を扱う物理・リンク層のプロトコルのことだと想像できます。また、おそらく人間の意識間の通信というものを試みた先駆者がホジスン教授とKIDSシステムで、英利はこれを参考にしたのだと考えられます。

 

「そう。仰る通り。アウターレセプターが受容した微弱な脳の電磁波をコンバートする、一種の脳の一部の機能だけを肥大化させたのが、KIDシステム、KIDSと言うものの正体さ」(6話)
「(子どもたちがプレイしているゲームに対して)しかも、アウターレセプターなど使わずして、現象を起こせるようにアップデータまでしてね。エミュレーションであそこまで広範囲に影響をおよぼせるとは、実に優秀だと言わざるをえない」(6話)

 
 最後に、このプロトコルでできることを確認してこの節を終わります。

 

 このプロトコルが可能にするのは、人間の意識がWWW(本作で言うワイヤード)に他のデバイスとの差別なく参加することです。我々が普段通信相手のコンピューターが何かを気にしないように、このプロトコルによって、人間の意識に対して、コンピューターに対するのと全く同じやり方で通信することができるようになります。具体的に言えば、たとえばブラウザのアドレスの部分には普通アクセスしたいページの場所を示すIPアドレスを入れますが、その代わりに誰かの意識に割り当てられたIPアドレスを入れれば、その人の頭の中を見ることができます(もちろんこれはものの喩えです)。これが、第7のプロトコルが可能にすることです。


lainとは何か

 さて、一旦話を昔に、作中でワイヤードが誕生する以前に戻します。

 地球上の恒常的な物理現象なので、そのときも依然としてシューマン共鳴は存在しました。つまり、人間の無意識はこの独自の伝送媒体を使って情報を交換することができたということです。

 

 しかし、これには当然限定があります。おそらくこのネットワークにはインターネットのように任意のノードから任意のノードへと情報を伝達する効率的な仕組みはありません。自然、人は繋がっているにしてもそれが大きな問題になることは、(たとえばケンジントン実験みたいに無理やりに何かを起こそうとしない限り)ありません。人々がつながっているにしても、それは非常にローカルなあり方だったと言っても構わないでしょう。

 

 さて、そこにワイヤードが、つまり、世界中を覆う電気的な伝送網ができるとします。英利の仮説によれば人間は無意識下にワイヤレスネットワークに接続されるのですから、非常に効率的で正確な伝送はできないにしても(そのためのプロトコルがないので)、無意識はより広範囲に、少なくとも以前よりは効率的に通信を行うことができるようになります。つまり、個々の人間の無意識がネットワーク上に現れ、奇妙な現象が起こり始めます。この個人の無意識が、おそらくは「lain」と呼ばれる岩倉玲音の一形態の元となります。

 

 ここで更にプロトコル7が導入されます。そうすると何が起こるか? 人の無意識がワイヤード(WWW)と完全にかつ効率的に接続できるようになります。すると、

 

「ダグラス・ラシュコフは、地球上の人間同士がネットワークで相互接続する事により、地球自身の意識をも覚醒させ得ると主張している」(9話)

 

というラシュコフのニューラルネットワーク仮説より、この無意識の接続により、1つの(一番上位の存在があるという意味で1つの)意識が創発します。

 

 話が前後しますが、英利はこの最上位の意識に前もって1つの入れ物を用意しておきました。岩倉玲音のことです。これにより、この意識を構成する個々の意識は遡及的に玲音の形をとることになります。これがlainの正体です。

 

(個々人の無意識と1つの最上位lainがあるのではなく、人の意識間の無数の接続ごとに1つずつ創発されうる意識があると考えるのが自然だと私は思います(数学的に喩えると、人類の意識全体を1つの集合としたとき、その冪集合の各要素が創発されうる意識になる)。このように、連続的に個人から集団、はては全人類までに至るという無意識観は、本作が参照したと思われるユング集合的無意識とも整合します。
もちろん、最上位の意識が完全にすべての部分を統合すれば、私達が手足を動かすように最上位の意識は下位の意識を制御することができます。(さっきの喩えでいうなら、冪集合の各要素集合間に包含関係によって定められる半順序関係が意識間の序列だということになります))

 

 個々人の無意識が玲音に統合される様子が特にわかりやすいのが8話で、「顔のない匿名の人々」→「玲音が自分の力を使ってサーチ」→「匿名の人々の顔に玲音の人形が刺さる(デュープ)」という流れになっています。

 

 この説を前提にすると、

 

「君は僕と同じさ。ワイヤードに遍在している。だから、どんなところにも、誰のところにも君は側にいたんだ。人に見られたくない事も君は見つめていた」(8話)
「君は元々、ワイヤードの中で生まれた存在なんだ。ワイヤードの中の伝説。ワイヤードの中のお伽噺の主人公ーー」(10話)

 

という英利の発言も理解できるような気がします。

 


英利の計画

 実のところ私は英利が何を目指していたのかはよくわかっていないのですが、少なくとも「ワイヤードをリアルワールドの上位階層にする=人間を進化させる」ことを目指していたことは間違いありません。ここでは彼がどのようにしてこれらを達成しようとしたのかを簡単に素描します。

 

「人は進化できるんだよ。自分の力で。
そのためには、まず自分の本当の姿を知らなくてはいけない。君は自分を何だと思う?人と人とはもともとつながっていたのさ。僕がしたことはそれを元に戻しただけにすぎない」(12話)

 

 一番最初のところで軽く触れましたが、彼は、人間が肉体に囚われ、唯物論的な言葉によって規定されてしまうことをさして、「人間の進化を留めている」と言います。しかし、彼は人間は進化しなければならないと考えています。詳しいことは次回説明する(予定)ですが、彼は、人間に対する根本的な規定を、書き換え不能な物理的なものから、書き換え可能な情報的なものに置き換えることができるのだと考えます。(あるいは、人間とは本来的には情報的な存在だったと主張します)

(彼のこのような考え方は「きおくにないことはなかったこと」(13話)、という主張にまとめられます)


 それと同時に、彼は、ワイヤード上ではある個人が神になることさえ可能であることに気がつきます。

 

 もちろん、「世界を司る万能の支配者」(8話)や「世界の創造主」(8話)になることは不可能です。しかし、普遍として存在し、影響力を及ぼす事のできる存在であればなることも不可能ではないのではないか? 具体的には

 

  • 普遍として存在 → 第七プロトコルに自分の情報をプログラムする

  • 影響力を及ぼす → 情報をプログラムすることでワイヤード上のあらゆる通信に鑑賞できるようにする。

 

という手段によって、今挙げた神の定義を満たすことができるのではないかと考えたのです。

 

 では、上のような手順でワイヤードの神になれば、彼の目的である人類は進化を実現できるのでしょうか? おそらくそうではないと思います。というのも、彼ができるのはネットワークに遍在してそこを流れる情報を制御することだけです。彼は人の意識に外側から働きかけることはできますが、最上位のlainがその下位意識を制御するような形で内側から働きかけることはできません。

 

 結局、彼がその目的である、「進化」=「物理的存在から情報的な存在への変化」=「集合的無意識の意識への変化」(=「非本来的なあり方から本来的なあり方への変化」)を行うためには、彼が上で言ったような形の神になることだけでは不十分で、最上位のlainの協力が不可欠です。人間の意識を本当に制御することができるのはlainだけなのですから。

 

 しかし、lainがそんな革命を実行してくれる保証などどこにもありません。では、どうすればいいのでしょう? そこで彼は次のよう考えたのだと思います。

 

 最終的には否定される仮象であるにせよ今現在は一応のところ「物理的拘束」は存在しています。ならば、これを逆用して最上位のlainを捉える事ができないだろうか? つまり、最上位のlainにあらかじめ肉体を与え、1人の人間にしておくことで、普段なら決して触れることのできない集合的無意識という存在に接触することができるのではないか? そして、その存在とコミュニケーションを取ることによって、彼の言う「進化」を実行するように仕向けることができるのではないか?

 

 このような過程を経ることで生み出された存在こそ、最上位のlainの肉体的ホログラム、すなわち「岩倉玲音」です。

 


 まとめましょう。英利の計画は以下の様なものです。

 

  •  プロトコルに自分の情報を入れることで彼の言う「神」になる

  • 最上位のlainを岩倉玲音という物理的な入れ物に拘束し、接触できるようにする

  • その上で、集合的無意識を意識に転化させる、すなわち、彼の言う「人間の進化」を実現するよう彼女に強いる

 

 

 

おわりに

 さて、英利の目的に関して素描することができ、物語世界の設定を概観することができたので、本記事はここで一旦終わります。大変なSF的方向からの解釈が一段落したので、次回はいよいよ、本作の要であるレインと玲音の区別と12話の英利と玲音の会話について考えていきたいと思います。

 

 非常に強引な解釈ですが、誰かの理解の一助になれば幸いです。

 

 


以下の記事を特に参考にさせていただきました。ありがとうございます。

 

shinozakichikaru.hatenablog.com

 

「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」 感想

 Twitterに感想を書くことに限界を感じたのでプログを作りました。


 字数、という面もありますし、フォローしていただいている方々がだいたい創作系なので、あんまり感想ばっかというのもどうかと思ったので。

 

 ちょうど、「打ち上げ花火~」を観たのでその感想を書きます。考察ではなく感想なので思ったことを箇条書きにするだけです。あんまりしっかりとした記事を書こうと思うと自分の場合絶対書かないので、リプレイできない映画を最初に選んだのは正解だったかもしれません。(lainの考察とかいつ記事にできるんだろう……)


さて、感想です。

 

  • 実はあまり期待していませんでした。でも結構楽しめました。あんな満足感で映画館を出られたのは久しぶりです。事前期待が低かったし、原作を知っていたので話の流れがわかっていたというのもあると思うのですが、それだけではないような気がします。

 

  • もちろん言いたいことは色々あったのですが、逆に、自分の経験上この作品のように「あそこはないよなあ」みたいに文句をぶつくさ言ってる作品とは長い付き合いになります。文句を言いつつ繰り返し見てて、ある日「自分この作品好きだ」と気づく、みたいな。(Myself;YourselfとかH2Oとか…… 全部世間的には糞アニメですが、自分は好きです)

 

 これ以上感想が思いつかないので、以下、好きなシーンです。当然のごとくネタバレ注意です。

 

  • もしも玉を最初に投げるシーン
    「もしも玉を投げるとifの世界に行く」とはじめに聞いたときは、何でそんな改変をする必要があるんだろうと思いました。その思いは観終わった今でも変わりませんが、最初に典道が玉を投げるまでの流れは自然で、感心したのを覚えています。

 

  • みんなでなずなと典道を追いかけるシーン
     二回目の世界だったと思います。電車に乗っている姿を友だちとなずなの両親に見られて追いかけられるシーンです。このあたりから原作から外れてくるのですが、いい転換点だったと思います。
     コミカルなシーンで、本編に最初から漂っていた悪い意味の緊張感が解けて良かったと思います。(逆に何で最初っからこれくらい軽くしてくれなかったんだろう?)
     あと、これは深読みと言うか妄想なのですが、何となく2回目のループは「死」を連想させるものが多かった気がします(線路に飛び降りたり、2人での逃避行的な要素が強調されていたり、そもそも最後に落っこちてた)。それでもほとんど暗くならなかったのは心臓にやさしくてよかったなあ、と。

 

  • まっ平らな打ち上げ花火
    原作を見たときからいつか映像にならないかなあと思っていました。 

 

  • 最後のキスシーン
     なんかこれで全部許せた気がします。自分がいちばん推したいシーンです。
     誤解してほしくないのですが、自分は実はキスシーンというか映画の恋愛要素自体があまり好きでありません。毎回ボーイミーツガールものを見るたびに、「こいつら結ばれないで終わらないかなあ」と思うのですが(本当です。別に登場人物に嫉妬してるとか不幸を望んでるとかそういうわけでもありません)、当然最後には結ばれるのでいつもその欲求が満たされることはありません。
     もちろん、今作にはキスシーンも恋愛要素もあります。でも、今作はわりと許せた気がしています。よくよく考えると理由は次の2つのような気がします。

    • なんか恋愛っぽくない
       2人の感情ってなんか普通に書かれるような恋愛っぽくないですよね。これは人によってはマイナス点かもしれないのですが、そもそも典道ってなずなのこと本当に好きだったんでしょうか。
       もちろん、最後には好きになってましたけど、あんな経験すればだれでも好きになると思いませんか? そういえば、原作では典道がなずなの写真を星座早見の中に隠していたんですが、アニメではアルバムに改変されていたような。繰り返しの回数も増えていて、彼の消極性を原作よりも強調しているような気がします。もしかしたら製作スタッフが自覚的にやっていたのかもしれません。
       記憶が曖昧なので間違ったことを言っているかもしれませんが、少なくとも、彼が積極的なアプローチをしていないのは間違いないのかと。

    • キスの順序
       二つ目の理由、と書きましたが、一つ目とそう違うわけではありません。
       記憶が正しければ、2人のキスが最初に映し出されたのって平行世界の方だったような気がします。画面にもしも玉の欠片の世界が映し出されて、典道が実際になずなにキスするのはその後だったような。
       とすると、順序が普通と逆なんですよね。典道は空想の世界で「自分となずなが結ばれている姿」を見て、現実(現実じゃないけど)の世界でもなずなの元へと飛び込むわけです。
       こういう転倒が自分は好きです。

 

 そういえば、最初にこの映画の話を聞いて、主人公が中学生に改変されると聞いて随分期待値を下げたような気がします。そのとき、「そこまで設定を変えるんだったら原作と同じ話をやるんじゃなく、原作の筋を原作とは違った状況に置かれた登場人物が自覚的になぞるような話にしてくれないかなあ」なんて考えました。

 この映画は小学生を中学生に変えたり、実写をアニメに変えたり、あるいは時代が変わっていたりしているわけですが、これでそのまま原作をなぞることで原作がどんなふうに「壊れる」のか、そして、作中で原作を「演じていた」キャラクターたちがそのときどんなふうに(原作にはない特質でもって)それに立ち向かうかを描ければ面白くなりそうだなあ、と考えたわけです。

 私がこのアニメを面白いと思った理由はその願いが部分的に叶った(ような解釈を許容してくれた)からかもしれません。

 自分はこういう「物語を演じる物語」みたいが好きです。それに夏が重なればもう言うことはありません。(というかそもそも日本人が想像する「夏」ってそれ自体物語だと思うんですよね。そして、そのイメージ形成に一役買っているのがたとえば原作なわけです)

 

本当に箇条書きで終わりましたが感想は以上です。

興味ある人は見てみて損はないと思います。