『理のスケッチ』 感想?

 


『理のスケッチ』 (https://www.freem.ne.jp/win/game/14883
製作: 捨て鳩さん(http://ngrmds2016.exblog.jp/
※ただし現在のバージョンは1.1

 

 

 ある日、あなたの前にあなたの理想そのものの物語が現れたとして、あなたはその物語に対して、考察でも感想でも解釈でも、何か価値あることを言うことができるでしょうか?

 

 


 私が『理のスケッチ』という作品をプレイしたのは今年の8月で、つまりは4ヶ月も前のことです。4ヶ月も前にプレイしたゲームの感想記事を今になって書いていることに理由がないわけではありません。

 クリスマスに合わせたかった、というのは勿論言い訳です。簡単に言えば書けなかったからです。その理由を考えると、一番最初に書いた通り、この物語が私の理想の物語そのものだったです。

 理想そのもの、というのは少し話を盛っていて、勿論本作にも欠点はあります。それどころか、客観的に見て本作が優れた作品なのかと聞かれても私は素直に首肯することはできません。しかし、この作品が私にとってその方向で出会うことのできた唯一のものだというのは確かです。そもそも立っている土俵が違うだけに、そもそもこの作品を他作品と比較する気がおきないのです。それだけに、この作品が自分に与えたのは感動というよりむしろ当惑で、非常に失礼なたとえかもしれませんが、読んでいる間はまるで並行世界の自分が書いたものを読んでる気分でした。(勿論私の技術は及ぶべきもありません)その意味では、私が本作に対して抱いた感想は「他人事とは思えない」です。私を魅せたのは話の大枠というよりは細かい描写の一つ一つであって、だからまとまった感想が書きにくいものでした。

 じゃあ感想なんて書かなければいいというのは全くその通りです。実際、最近話題にもなりましたが、あまり人に知られていない作品の感想を書くことはかなりリスキーな行動です(個人の意見がその作品の評価を決定づけてしまいかねないという意味で)。が、そういえば8月ごろに感想をいつか書くと言ってしまった気がしますし、そもそもその言葉を言わせるだけの熱量が自分の中に湧き上がっていたということもあって、何かしらアウトプットしたいという気持ちがありました。

 というわけで感想を書こうと思っていたのですが、上のような事情があるため、正直何を言って良いのかわかりません。文章というのは何かしらの共感を少なくとも要求するものですが、私がこの作品に対して感じたことが客観的に多くの人に対して成り立つことだとは思えないのです。

 とはいえ、「自分が感じた特別な感情というものが特別であることなどありえない」、「他の人と共有不可能な感情を抱くなんてほとんどありえない」というのは、ネット全盛の我々の世代には自明のことで、この作品に対してじわじわ増えてきているレビューからしても、このゲームをプレイする多くの人間が私と似たようなことを感じるというのは大いに有り得ることです。あるいは、1人の人間にこんな記事を書かせるようなゲームとはどんなものだろうと興味を持ってくれる方がいないとも限りません。

 こういう事情で、感想記事を書くことにしました。結局まとまったものにはできなかったので、漫然と好きなシーンを述べるだけですが、どうかご容赦ください。もし何か記事に不都合があれば消すので気軽に相談してください。

 


細々とした描写


  出してくるアイテムがいちいち私の好みどストライクです。
 「屋上」、「少年少女」、「哲学」、「文学」、「隠された日記」、「告白」……この程度なら別にどこにでもありますが、本作は更にその先を行きます。
 「盗みの詐称」に関する罪悪感。およそ人間とは思えないような悪魔的な登場人物、「煙草」、「演技」……この辺になってくると無二な気がします。
 挙げればきりがないのですが、他にも冒頭の場面などがそうです。正直に言えば、この場面はわかりにくいです。たとえば、「野崎英理は困っていた。大事にしていた本をなくしてしまったからだ。彼女はその2週間前……」とかすればすっきりとして、より多くの読者を獲得できるのかもしれません。が、この作品はそうしません。この作品はまず英理の様子を客観的かつ公平に描写してみせることから初めて、彼女の内心に本格的に踏み込む前にわざわざ「ここで彼女の思考を少し伺ってみることにしよう」という前置きまで書いています。そのあとも、決してまっすぐと本題である「魔の山」の文庫本の話へと向かわず、「その本をここで失くしてしまったのだ!」と言うまでも言ってからも多くの字数を費やします。この、文章に対する態度、(見当外れかもしれませんが)多少導入がらしくない(冗長な)ものになったとしても面白さよりも叙述の一貫性が崩れないことを優先するという態度が、少なくともノベルゲームにおいてはほとんど見られない態度で、だから私はこの作品に惹かれたのです。

 

 

「スケッチ」と「英雄」

  母親はあまり理知的ではなかったが、行動的であった。母親自身が利他的な慈善な気持ちに富んだ人物かどうかというのもここではさして問題にならなかった。キリスト教ならば、教える本人が自堕落でも神様を手本にすればよかったが、母親は無宗教だった。よって娘が手本にするのは大量の本を集合させた実在しない英雄のことであった。娘は幼い子ども独特のひたむきさで必死で頭をひねったが、それから導き出された解答は母親を満足させなかった。

 娘に答えのない問を与えさせ、それでも考え抜いた答えを辛辣に批評して、娘の失敗を教えてやる。この果のない指導は終わりが見えてはいけないのだ。終わりが見えたとき、母親は美しさが永遠ではないことを知ったときのように教育もまた永遠ではないことに失望してしまうからだ。

「でもやっぱり確固とした答えのない問を強制され続けるほど、辛いことはないんだよ。何をいっても間違いで返されるだろうという確信を、いまさら変えることなんてできっこない。だから私は完全な答えがほしいんだ。それがないと生きていけないんだよ」



  とくに上に挙げた、「大量の本を集合させた実在しない英雄」という言葉が自分は好きです。この場面での英理の感情には共感できる部分があります。
  先程言ったように、本記事でこの作品の内容にたいして深く考えてみようとかそういうつもりはない(しその能力もない)のですが、この「英雄」というキーワードは本作の内容を整理する上で非常に有用な指針になりうる気がしているので、考えたことを漫然と書いてみます。(だれかの理解の参考にならないとも限らないので)

  まず、この「英雄」という言葉は製作者の方が意識的に用いたものだと推測できます。というのも、この作品の主人公の名前は河原「瑛雄」だからです。ちなみに「英」の字は勿論「野崎英理」の名前にも使われているわけで、単なる偶然であるという可能性は低そうです。
  では、本作は上の場面で述べられたように、「英雄」=「完全な答え」=「完全な理」を求めていた野崎英理が、河原瑛雄という英雄に出会って救われる話なのでしょうか? この解釈は間違っていないと思いますが、問題をあまりに単純化しすぎているように思えます。たしかに、彼は最終的には「英雄」になりました。これは親友が述べている通りです。が、いちいち引用はしませんが、彼は一度「英雄」の座から追われてしまっているのです。となれば何故彼がかつて、(偽の)英雄ではなくなり、しかし今再び英理にとっての「英雄」になることができたのかが問われなければなりません。また、救われたのは果たして英理だけなのかという疑問も尤もです。何度もアキオが言っているように、英理は彼にとっての憧れでした。とすれば、彼も同様に救われた(この言葉が悪ければ、何かの問題を解決・解消することができた)といえるわけです。となれば、お互いに不完全な彼らがどのようにして再び立ち上がれるようになったのかが問われなければなりません。
  さて、今の論点をより深く理解するため、この作品のふりーむでの紹介文を見てみましょう。

 

理のスケッチ。それは不完全だけど紛れもなく理の描像。神からすればその描像はあまりにも淡く、人間からすれば出来すぎていると言う。それでも人は理想を描かざるをえない。たとえ不格好でいびつだとしても、時間と技術が足りなくても、筆を手に取りキャンパスの向こうに夢を見る。地平線を見ては、スケッチを描いてそこに向かって突き進む。スケッチと地平線が溶け合うその瞬間を夢という。

 

一人は地平線を見失いスケッチを破いてしまった。もう一人はスケッチは完成されていて、見本である地平線そのものが間違っているのだと執着した。

 

悪魔に好かれた少年はまだ眠っている。天使の愛を否定し続ける少女は夢を見る。そんな二人が手を取り合うまでの物語。


  私の記憶している限り(全然間違ってることはありうると思う)、この作品のタイトルで使われている「スケッチ」という言葉が直接使われているのはこの紹介文だけです。これによれば、今「不完全」とよんだ彼らのあり方を「理のスケッチ」という言葉で理解することができます。「地平線」という言葉の意味をあえて考えるなら、「現実」や英理がいつか言ったような普遍性に還元できないような自分の人生の問題のことだと言えるでしょう。それを見失いスケッチを破ってしまったのがアキオであり、地平線そのものが間違っていると執着したのは英理です。こうしてタイトルまでたどり着いた今なら、「英雄」=「理」というキーワードから本作を理解することがさして無謀な試みではない気もしてきます。
  というわけで、このような問題設定で本作を読み解いてより深く理解できればと思っているのですが、まだ本作の全貌を理解しているとはとても言えないので、この作業はあまり進んでいません。尻切れトンボで申し訳ありませんが、この作品が好きな人にとって何かの指針となれば幸いです。

 

※現状把握してるこの方針の問題点:

  • もう一つの明らかに重要な対立軸である「屋上」と「教室」との接点がそこまで明らかじゃない
    「地平線」を「スケッチ」できるのは「屋上」にいるときだけ。と言ってしまえばそれまでなのですが、これだけではまだ足りない気がしています。下に挙げる親友の発言ももっと汲むべきでしょう。その他、クオリアや道徳論などに対して本作で展開された議論も同様です。
  • 「ピエロ」との関係
    無理に二項対立に持ち込む必要はまったくないのですが、「英雄」という言葉と対立して用いられている事が多い「ピエロ」という言葉について何も考えないというわけにもいかない気がしています。
  • そもそもこんなことする必要があるのか?
    本作のキャッチフレーズ(?)は「前半は哲学、後半は文学。ラストは言葉を伴わない。」です。哲学=物事を普遍的にまとめ上げること、文学=言葉を媒介にして他人の人生を見ること、とある通り、この決着は「言葉を伴わない」ものだとも言えるわけです。実際、普通に見れば英理が何に救われたのかなんてことは自明であって、それをわざわざ前半だけにしか妥当しない方法論で読み解こうとするのは本作に対して不誠実な態度である、と言えないこともないわけです。

「スケッチ」という言葉について:
 なにかある完全なものに対して、それを人間が不完全でも形にしようとする営みを「スケッチ」と表現するのはこれと言って変わった言葉遣いではないです。よって、この言葉の来歴に気を払う必要はないと思われます。仮にそれができたとしても、「カレーニン」という言葉の出処と同様に、この言葉を『存在の耐えられない軽さ』の中での用法に照らし合わせるとかそれくらいがせいぜいでしょう。
 なので、個人的な興味関心に近い話になってしまうのですが、いわゆる実存主義(というよりは現象学存在論)の用語として知られる「投企」という言葉は(日本語の字面の意味不明さとは対照的に)、フランス語(projet)やドイツ語(Entwurf)ではともに「下書き」、場合によっては「スケッチ」の意味を持ちます。私はこの辺に興味があるので、それを掘り下げるという側面からも、この作品での2人の「普遍的にまとめ上げることが困難な」「人生」に対する態度が「スケッチ」と呼ばれたことをもっと掘り下げてみたい気持ちはあります。

 

「親友」について


  散々英理とアキオについて語りましたが、実はこの作品で私が一番好きな登場人物は「親友」です。そのきっかけとなったのが以下に引用する場面です。といっても、おそらくこの台詞は現在のver1.1では削除されているので、もしここに載せることに問題があれば、コメントを頂ければ削除します。実際、この変更は「親友」のキャラクターの立ち位置を大きく変える変更なので、今更こっちを載せることは製作者の方にとっては非常に不快でかもしれないので。(どちらが良いかと聞かれればver1.1の方が良いと思うのですが、どちらが好きかと言われるとver1.0です。というより、この作品で一番好きな台詞がこれです。変更の経緯は製作者である捨て鳩さんのブログにも書いてあるので参考までに。http://ngrmds2016.exblog.jp/27843265/

 

 「屋上に行くんだろう? 屋上は俺のようなものにとっては手の届かない聖域なんだ。あの場所はあまりにも脆すぎるよ。大体今の学校に屋上なんて必要ないのさ。実用的な空調完備の設備さえ置く場所が確保されていればそれで十分。生徒が語り合う場所なんて用意する必要がないんだよ。
 いわばそれは計算外、設計外のイレギュラー。設計者は生徒が憩いの場として利用できるように屋上を作ったんじゃない。偶然の産物! 屋上のために学校はあるのではない。


 それに対して俺のいる場所は教室のような地に足の着いた生活の場所なんだ。そこでは生徒がひしめき合い絶えずつまらないことでせせら笑ったりたそがれたりしてる。知ったかぶったやつはそれを仮面の微笑みなんていうけどな、まぎれもなくその仮面は真実なんだぜ。その下に本当の顔なんてないんだよ。空虚なんだ、教室においてその疑いは意味をなさない。仮面の微笑みは紛れもなく心からの微笑みさ。


 間違っていることを言ってるか俺は? ははは! お前はやっぱり子供じゃなくて立派な大人だな! 言わなくてもその不服そうな表情を見てみればわかるよ。

 

 ……まるで俺の説明は人間から感情を都合の悪いものとして隠そうとしているように見えるんだろう? その通り! 俺にとってその意見を受け入れない人は都合が悪い人間なんだよ。表現と感情のズレを持っている人間というのがね。いやらしくも仮面の下からまるで本当の自分の表情がありますといわんばかりにちらちらパフォーマンスをする女々しい奴らがね。言いたいことがあるなら口で言えってんだ。


 それをいつまでたっても折り合いをつけようとしない未熟な人間が幼く見えて仕方がないんだよ。それは本来子供の内に済ますプロセスなんだ。膝が擦りむいているから泣いてるのかい? それは悲しいというのだよ。悲しかったら誰かに助けを求めようね。こんな感じで教えてあげないといつまでたっても子供は動物のままさ。せいぜい痛みに金切り声をあげるだけで、助けが必要だとか自分からいいやしないからね。慟哭することしかできない子供は教育しなければならない。言葉を用いて必要なことをなせ。発話から意図することを学べ。


 なに、それができないだって? 甘ったれてるな。ムチでピシャリ! 暴力に対して厳しい現代ならどうするかな? まあ言葉で折檻するのが一番かな。

 ……怒声罵声罵詈雑言、理不尽な語の塊を矛盾含めて一斉にぶつけてがんじがらめにしてやるのさ。まあそのうちその牢獄なしには生きれない身体になってるわけだ。

 

 ――移ろいゆく魂は言葉の牢獄に宿されし、精神飛翔の暁には霧散して消える幻かな

 

 はは! どうやら俺は詩作の才能があるらしいぞ!」

 

  「これで決別というわけではないからな! 俺とお前はもしかしたら家族よりも彼女よりも長い付き合いになると思うぜ。ただの腐れ縁、という言葉で表現しきれないのさ俺達の関係は。今の時代なら家族よりも俺とおまえの関係は根深いものだ。かつては俺とおまえの関係は逆だったんだがな。今では俺はお前なしには存在できないし、お前は俺の存在なしでは生きづらいと思うぜ? だからこれでお別れなんて軽々しくいうんじゃないぞ。女が原因で関係がこじれたなんてごめんだからな!」


 まず、この思わず音読したくなるような長台詞です。日常会話からすると到底ありえませんが、こういうのが自分は大好きです。
 そして、話は個人的なことにまたもやなるのですが、この台詞を私が好きな理由は内容にあります。「屋上」に対する考察や、「仮面」には中身なんてないということ、そして、それが大人になることだということ、それが見事に1つの台詞として表現されていて、感激したことを憶えています。(それどころか、どこにも公開していないのですが私自身実は全く同じような(しかし表現力ははるかに劣る)内容の文章を書いたことがあります。こういうところからもやっぱりこの作品は他人事だとは思えない)
 また、この台詞は本編と無関係だとも言えません。たとえば「屋上」と「教室」の対立はこの台詞をもってより深く理解することができます。
 もう一つ、「仮面」にその中身があるのかどうかということをこの場面で述べることはは本編のその後の展開について大きな意味を持ちます。たとえば、その後の場面でアキオが鉄壁に思われた屋上の英理に踏み込むきっかけとなったのは、彼女の「涙」なのでした。この「証拠」は「優しい」ものですが、それでも、彼はこの証拠がなければ踏み出せませんでした。でも、「涙」や「日記帳」が仮面(表現)であることもまた事実であり、その意味ではこの時点のアキオは親友の発言を超えることはできていません。親友が「俺の存在なしでは生きづらい」と言った意味の一端をこの例から理解することもできる気がします。(これは妄想である可能性も高いですが)
 この、「行為」と「内面」という軸も本編で重要な意味を持っている気がします。個人的に興味がある分野でもあるので、これも掘り下げてみたいです。

(関係あるかはわからないのですが、製作者の方はサールに詳しそうなので、その方面からアプローチするのも良いかもしれません。が、個人的に、英米哲学には苦手意識があるのでできれば別の方向から攻めたいと思っています。本作においても「演技」という一種の「引用」が1つのキーワードなので、むしろ逆のデリダの側から見るのも面白い? かもしれません)

 

 

 


 結局この物語の核たる部分には大して触れられず、その周りをぐるぐる回っているだけみたいな記事になってしまいましたが、とりあえずここで筆を置きます。

 

 何はともあれいい作品なので、この記事を読んで興味を持った方はぜひプレイしてみてください。

『serial experiments lain』 考察メモ(3)後編 13話を考える

 

 この記事が最後の記事になります。

 

 前回はこの作品を考察するとはどういうことかを考えることからはじめました。得られた結論は、この作品を考察するためには少なくとも「玲音はどこにいるのか? 何か?」という13話冒頭で提示された問に答えられなければならない、というものでした。そして、私はこの問を理解することをこの考察記事の問題設定としました。

 この問が開かれているのは、「こっちーそっち」という場所概念によって観念されるような地平です。そして、この問の答えは、「私はここにいる」でした。なので私達は、「こっちーそっち」というのがどこを、何を指しているのかを答えることができれば、目標を達成できることになります。

 この問(「こっちーそっち」とは何か)に誰もが疑い得ない絶対の解釈を与えることができるような絶対の根拠は作品中には見つかりません。結局のところ、「えいや」で答えを与えるしかないのですが、そのためには作中で語られた論点を可能な限り拾うべきでしょう。

 ということで、今回は13話本編を読み解いていくことから始めましょう。。

 


Aパート


 Aパートには理解が難しい場面は特にありませんが、後々のために一つだけ問題提起をしておきます。

 Bパートでれいんが言うように、13話で玲音は自分の存在(記憶)を消します。ここで素朴な疑問なのですが、どうして玲音はここまでしたのでしょうか?

 彼女がその決断をするのは、英利の姿を見て頭がおかしくなったありすを見たからです。でも、9話でやった通り、その記憶を消して過去からやり直しても良かったのではないでしょうか? 実際、れいんは玲音に、「もう一度はじめからやり直す」ことを提案しますが、玲音はそれに同意しません。それなのに、玲音はちっとも嬉しそうに見えません。これはいったいどういうわけなのでしょう。

 

 

玲音とれいんの会話

 Aパートの話はそれくらいにして、Bパートに移りましょう。まずは玲音とれいんの会話からです。

 この会話は大いに見るべきところがあるように思えますが、あらかた前回までで語り尽くせたように思えるので、次の二点についてだけ述べます。「ワイヤードがどこにつながっていたか」という点に関しては、非常に重要であると思えるものの、本作の記憶概念に強く根ざした議論なのでここでは扱わず、余裕があれば前々回の記事に追記しておきます。


玲音ははたして肉体を必要とするのか?

 これは、このシーンの解釈というよりは、ここまで続けてきた考察の前提を確認する作業です。

 今まで私は何度か、「この作品はワイヤードvs物理世界(あえてリアルワールドとは言いません)という対立を考えた上で物理世界を上位だとみなすようなものではない」という趣旨の発言をしたと思います。

 私がこの立場を取る最大の根拠がこの場面です。はたして、この場面の玲音は肉体を持っているように見えるでしょうか?

 このシーンで玲音とれいんは自由気ままにさまざまな場所を渡り歩きます。当然、常識的に考えれば肉体を持っている存在がこんなことをできるわけがありません。他にも、本作で玲音の肉体性が最も強調された場面は12話のありすとの会話ですが、玲音以外の存在がいない世界である以上、他者と物理的に触れ合う事ができないので、この側面からこのシーンでの玲音の肉体の有無を捉えるのはそもそも意味がありません。他に、肉体の役割を「自分がここにいるということを知るため」だと言っていた箇所が何処かにあったような気がするのですが、そういう意味での肉体なら英利(エイリ)だって持っていたわけです。

 結局、肉体というのは、他者とのふれあいとか、疲れとか、死とか、有限性とかそういう観念と組み合わさって初めて常識的な比喩として適切に解釈できるものです。だから、そのいずれとも結びつかないものをわざわざ肉体と呼ぶ努力をする必要はないでしょう。

 以上のように考えて、私は玲音は肉体とは関係ない、より正確に言えば、その本質を肉体に持たず、別に肉体がなくなっても存続できる存在だと考えました。なので、繰り返しになりますが、本作で何回も言われた、「肉体は無意味」という言葉は殆ど間違っていません。問題なのは、それを主張する人たちがそれぞれ思い思いに立てた「無意味じゃないもの」がことごとく間違っていたということなのです。

 

 

「れいん」とは何か

 このシーンで玲音の会話相手となる存在は便宜上「れいん」と呼ばれます。世間一般では、ワイヤードの女神とも見なされます。

 前々回に、「レイン」は岩倉玲音を「目的」という観点から見た存在だということを述べました。前回、一見してレインに与えられる特徴を無視してまで私がそのように解釈した理由について述べました。それは、私たちは13話の問が発された時点から物語を解釈しなければならないという理由でした。その観点から言えば、「レイン」を岩倉玲音にとって本質的な存在だとか、彼女のあるべき姿だとか解釈しても問題ないという話もしました。

 「れいん」の存在は、基本的にはこの系譜に連なるもので、言ってしまえば岩倉玲音のあるべき姿、本質です。

 「レイン」は結局のところ英利が(ナイツなどを経由して)作り上げた存在で、ワイヤードとリアルワールドを破壊するプログラムでした。その限りで、「レイン」は英利が使用する「道具」だと考えてしまってもいい存在なわけです。その意味では、玲音がこれまで感じてきた苦痛は、英利が「レイン」という道具を使って行った嫌がらせによるものだという解釈だってありうるわけです。

 さて、12話で玲音は英利の矛盾を指摘し、彼は自滅します。彼女に嫌がらせをする存在はいなくなったわけですが、「レイン」の存在がいたことで彼女に引き起こされた問題はそれで解決したのでしょうか? 答えはもちろんNOです。その過程で彼女は人類の集合的無意識が意識へと転化されたものだということ、が明らかになったことで、やはり玲音は「彼女のように見えるのに玲音にとっては自分が彼女だとは到底思えない存在」と自分とがどう違うのかについて悩まされます。そして13話冒頭の問に繋がるわけです。

 このような背景の下で現れた、玲音に対する対立項こそ「れいん」です。岩倉玲音は人類の意識全てとつながっており、それらを自由に操作できる。そんな絶大な力を持った彼女の本質をなんと名指せばいいのか? 答えはもちろん、「神」です。岩倉玲音が英利政美が作ったとおりの、「ワイヤードとリアルワールドの境界を破壊するプログラム」だったのかどうかは(英利ですら誰かに操られていたかもしれないことがわかっている)今となっては定かではないですが、彼女が神と呼ばれるに値する実行力を持っていることは疑いえません。それを象徴化したのが「れいん」という存在です。
(作品上の役割からすると、「レイン」と「れいん」は同じ存在だと言ってしまって問題ありません。要は「レイン」という現実で玲音が出会った存在から、玲音の存在を考える上で不必要な部分(英利など)を抜き出して純化した存在が「れいん」です。さらにパラフレーズするなら、13話の問が発された時点で振り返ったときに、かつてレインであった存在がそうなっていたものが「れいん」です。このあたり、私の前の記事は錯綜していて、本来は「れいん」に任せるべき役割を「レイン」にもたせてしまっていたりします。すみません。)


 では、彼女との会話で玲音はどのような結論を下したかというと、それは見て分かる通り、「彼女は私ではない」です。しかし繰り返しになりますが、英利の場合とは違って、彼女が神に値する存在であることは疑いようがありません。「玲音」は「レイン」ではないかもしれませんが、「れいん」であることは間違いないのです。

 その事実を端的に、皮肉を交えて示すのが2人の会話の結末です。玲音は自分が神であるという解釈を、ワイヤードの神と同格の存在である「れいん」を消し去るという方法で拒否します。自分が神であることを否定しながら神と同格である存在を気に食わないからという理由で消し去る存在。そんな存在に対して、れいんが去り際に

「じゃあ、あなたは何なのよ? 玲音」(13話)

 と問うのは至極もっともに思えます。

 

 

玲音と康男の会話 分析の準備

 今まで見てきた通り、ここまでで為されたのは問の確認で、新しいことはありません。というより、私は13話の冒頭の問が発された正確なタイミングは玲音がれいんを消した瞬間だとするのが適切だと考えています。実際、そこでは冒頭で述べられた問が繰り返されます。

 というわけでこの問の解決は、玲音と康男(玲音の父)の会話の場面で為されると思われます。特に深く考えずに見ても、重要な場面はここだと直感的にわかるでしょう。

 以下に引用します。

 

(玲音、フードを脱ぐ)
康男「玲音。もういいんだよ、そんなものを被らなくても」
玲音「お父さん、知ってる?」
康男「なんだい?」
玲音「私、みんなが……」
康男「好きだって?」
康男「違うのかい?」
(玲音、泣き出す)
康男「玲音、今度美味しい紅茶を用意しよう。そうだ、マドレーヌも……きっとだ。おいしいよ」

 

 この場面を解釈するにあたって、まず、この場面に非常によく似た次の場面に注目することから始めましょう。

 

 (カール(黒服)、レンズアイを外す)
カール「私達には、あなたが何なのか、未だに理解できていない」
カール「しかし、私は貴方が好きだ」
カール「不思議な感情ですね。愛というのは」
(10話)

 

 玲音は、フードを脱いでみんなが好きだったと言おうとしました。一方、カールは、レンズアイを外して貴方が好きだと言いました。形の上では2人の行動の類似は明らかに思えます。

 しかし、「何故カールなのか?」という疑問も当然湧いてきます。彼は重要なキャラクターですが、13話の一番重要な場面で鍵を握る人物であるとは到底思えません。

 この疑問は、10話「LOVE」の内容を思い出せばすぐに解決できます。この回にはもう一人、何かを外しはしなかったもののカールと同じく彼女に愛の告白をした人間がいました。後で必要になるので周辺部分も含めて抜き出します。

 

康男「これでお別れです。玲音さん」
康男「もうご存知になったんでしょう? 私達の役目は終わったんです。短い間でしたが、大したお世話もできず」
康男「あなたはこれからどうしようと自由です。いや、最初からあなたは自由だったんだ」
康男「お別れを言う許可は得ていないのですが、私はあなたが好きだった」
康男「別に家族ごっこが楽しかったわけじゃあない。あなたという存在が、私には羨ましかったのかもしれません。じゃ」

(10話)

 

 相手がカールなら役不足ですが、康男だったら何の問題もありません。13話で話しているのも康男と玲音だからです。

 さて、カールを経由して、13話のシーンと10話のシーンを繋げることができました。10話の会話には「フードを脱ぐ」に相当する物がありませんが、これは容易に想像がつきます。カールがレンズアイを外した意図を、「本音を言うため」、「自分の役割とは矛盾する言葉を言うため」だと想像するのは自然です。とすれば、康男の場合、「父という役割を外れる」、「偽物ではなく本当の関係で話す」ということが、「フードを脱ぐ」ことに相当していると考えていいでしょう。

 このシーンの分析にとりかかるまえに、もう一本だけ補助線を引いておきます。10話にはもうひとり、彼女に告白する人間がいました。しかし、彼の行動は他の2人とは大きく異なっており、2人の「愛」とは何であるのかを定めるための参照軸として有用です。

 

英利「かわいそうな玲音。もう一人ぼっち。でも僕がいる。愛しているこの僕がいる。君をこの世界に送ってあげた僕を、君は愛してくれるはずだ」
英利「僕は、君の創造主なんだ」
(10話)

 

 さて、カールのことはもう忘れていいでしょう。玲音を「作った」英利と玲音の「父親」である2人はともに玲音の「創造主」です。この点を踏まえた上で、2人の愛の違いは次のようにまとめられます。

 

  • 相手の愛を要求するか
    英利は、要約すると、「君は(創造主である)僕を愛してくれるはず」といいますが、康男はそれを要求することをしません

  • フードを脱ぐか
    康男は「フードを脱ぎ」ました。ここで、康男にせよカールにせよ、「フードを脱が」なければ愛の告白をすることはできないと考えるのはそこまで変ではありません。一方、英利はそんなそぶりを見せません。


玲音と康男の会話 分析

 以上を踏まえて2人の会話を分析します。

 


フードを脱ぐ

 康男は「もういいんだよ、そんなものを被らなくても」と言います。先程見た通り、康男の方の愛の告白のためには、「フードを脱ぐ」ことが必要だと考えることはそこまで常識はずれではありません。とすると、康男の発言は玲音へ愛の告白の許可を与えます。

 

 当然浮かぶ疑問は、どうして玲音はこの場面で康男に許しを与えられなければ「みんなが好きだった」と言えなかったのか、というものです。そのためには唐突に思えますが、そもそも、今までの玲音の「愛」、このシーンに至るまでの玲音の「愛」は2人のうちどちらのものだったのかを見極める必要があります。

 

「では、次のメッセージです。玲音を好きになりましょう」


玲音「ありすは、私が繋げなくても、私の友達になってくれた」


玲音「私、ありすが好き」

 

(いずれも12話)

 

 以上挙げた例からも分かる通り、13話以前の玲音の「好き」という感情は、康男よりも英利に近いものでした。では、次に疑問に思うのは、何故玲音はそのような愛しか持つことができなかったのか、ということです。この疑問は、康男の愛の告白は何故「フードを脱が」なければならないかという疑問と合わせて考えるとわかりやすいです。ここで効いてくるのが、英利が言った「創造主」というキーワードです。

 もし、康男が「フードを脱ぐ」ことなく玲音に愛を告白する、つまり、まだ自分が偽物の父親であることを明かさずに玲音に愛の告白をしたらどうなるか、ということを考えてみましょう。まず、この言葉は正確には伝わりません。何故なら、康男が玲音に本当に伝えたかった意味での愛を彼女に伝えることは、親子という関係がある場合には不可能だからです。さらに、玲音は果たしてその愛を正しく受け取ることができるのか、という論点もあります。親(創造主)が、その子供に向かって親子の情とは異なった、「愛」を告白する(必ずしも恋愛的なものを意味しません)。はたして、その生活の全てを親(創造主)に依存している子供はその「愛」を受け止めることができるでしょうか? 不可能である、と答えることに大きな飛躍はありません。英利がそうであったように、創造主の愛はそのまま伝えられてしまうと必然的に被造物からの愛を要求することになってしまいます。

 さて、玲音は2人の被造物(康男の場合は違いますが)であると同時に、全人類を支配することができる「神」でもあります。だから、この理屈は彼女にも適用することができます。

 全人類の創造主にも等しい能力を持つ彼女は、それゆえ、その愛を被造物である人間に伝えることができないのです。これは、康男や英利の場合とは規模が大きく異なります。康男は、結局彼女に愛を打ち明けることができました。なぜなら、その親子関係は本当は偽物だったからです。つまり、「フードを脱ぐ」ことができたからです。英利は? 彼が生み出したのは結局「玲音」1人だけです。人類全員に対して愛を告げることが不可能になった玲音とは状況が大きく異なります。そうでなくても、英利は誰かから愛を要求することに対して罪悪感をおぼえることはないでしょう。英利はそもそも、他の人間なんて好きじゃなかったのです。

 実際に玲音が誰かに愛を伝えてしまったらどうなるのかは、ありすの結末を見れば明らかでしょう。たしかに、彼女がおかしくなってしまった直接の原因は英利ですが、その大本の原因は玲音がありすを「繋がなかった」からです。そして、その原因は彼女がありすのことが好きだったからです。

 以上を踏まえれば、私がAパートで(わざとらしく)触れた、「玲音が自分を消さなければならなかった理由」が分かります。何故玲音は自分の存在を消す必要があったのか? 「みんなが好きだった」からです。何故玲音はそれなのに悲しそうなのか? その好きだったみんなに思いを伝えることができなくなったからです。その誰にも会うことができなくなってしまったからです。それを誰かに伝えることすらできなかったからです。何故、それを伝えることができなかったのか? 「神」である彼女にそんな許しを与えることができる存在などどこにもいなかったからです。

 さて、このシーンではその玲音に対して、康男が与えられないはずの「許し」を与えます。何故彼女が涙を流したのか、それでどれだけ彼女が救われたのかは明らかだと思います。そして、このシーンが彼女の考えにとって大きな転換点になったことも理解できると思います。

 

「みんなが……」「好きだって?」

 13話でれいんは、「それを人がしる必要があるのかな?」と言います。これは直接は「ワイヤードがどこにつながっているか」に対する返答ですが、このような一種の不可知論が本編に挿入されることの意味は大きいです。具体的には、この作品で最上位の神を想定することが許されることになります。なので、このシーンの康男を玲音よりも上位の神であると考えることに問題はありません。

 しかし、こんなデウスエクスマキナで片付けてしまっていいのかという疑問はもっともです。なので、少し勇み足かもしれませんし、考察の本旨(13話の問の解釈)とはそこまで関係ないのですが、康男が玲音の言葉を遮ったシーンから想像を膨らますことで上位の神の存在抜きで説明しようと試みます。

(というより、この段階で、13話の問である「玲音は何か」から、それを問わしめたところである「何故玲音は神であることに納得出来ないのか」という暗黙の疑問へと重心をずらすことは正当化できると思います。基本的にこの記事では最初の方針を守るつもりでいるので、それはしませんが)

 仮に、全てが玲音の妄想であるとしましょう。つまり、玲音は最終的に自分のことを認めてくれる妄想の父親を作り出したということです。これは、間違った解釈ではないですが、心情的に受け止めることができるかというと微妙です。彼女の感情の動きを考える上では、この経験が本当のものであっても妄想のものであっても変わりませんが、我々はこの経験が真正なものであってほしいと思います。

 実は、一つだけ条件を付け足せば、これが空想であっても真正な経験であると言うことができます。それは、これがただの空想ではなく、彼女が実際に経験した出来事をもとにした空想だという条件です。

 先程述べたように、この場面は10話の場面の立場を逆にしたものです。とすれば、この「空想」は、実は以下のような出来事のメタファーだと言うことができます。すなわち、「玲音は絶望のさなかで、自分が『みんなが好きだった』事に気がつき、それを誰かに伝えたいと願ったが、記憶の中に、全く同じ事をしようとしていた人を思い出した」という出来事です。

 自分と全く同じ行動を取ろうとしていた人の記憶。これが意味するものは何でしょうか? それは、自分と全く同じ感情を抱いた他者の存在です。

 とすると、少し説を修正しなければなりません。玲音を救ったのは誰かに許しを与えられたことではなく、自分と同じ感情を抱いた誰かの存在に気がつくことができたことです。他者との通路を全て遮断してもまだ残る誰かの残滓。それは自分を自分たらしめる記憶の中にあり、断絶のさなかにも他者の存在を玲音に知らしめました。あるいは、これはある、場合によっては単なるコミュニケーションよりも深い、逆説的な「繋がり」なのかもしれません。

(これ以上深めることはしませんが、もし気になる方は10話冒頭に玲音と英利の間でなされた(意地の悪い)先読み合戦と、この康男と玲音との会話無き会話とを比較してみると面白いかもしれません)

(述べるタイミングがなかったのですが、10話の康男の言葉の「あなた」や「玲音さん」を「みんな」に、「家族ごっこ」を「人間としての日々」などに置き換えると、これを玲音が発したかったメッセージに読み替えることができます。別にこの考えが正しいという根拠はどこにもないのですが、それなりに納得できるメッセージになります)


ありすとの会話

 さて、今までの分析でもう考察の目的自体は果たせそうですが、せっかくなのでありすとの会話についてもかんたんに触れておきます。

 前の場面は過去の場面の反復だったわけですが、この場面も反復だと考えることができます。ありすは、その恋人の「先生」と一緒に歩いています。そして、2人は「ベッドルームのカーテン」なんて話もしています。多少飛躍しますが、このことから、この場面を8話のシーンのやりなおしだと考えることができます。

 玲音は過去、何度もありすを傷つけました。もう、玲音は彼女を傷つけることはしません。ソファ→部屋の外→歩道橋と、彼女がありすへの距離を大きくしていったことからも明らかです。

 おそらくは、これが正しい彼女たちのあり方なのだと思います。それでも玲音は幸せそうに見えます。何故か? 自由に想像していいと思います。誰かに理解してもらえて、問題を解決できたから、と普通に考えてもいいでしょう。あるいは、少し深読みをゆるすなら、玲音は、この短い会話でも、「未来」にありすが振り返って、玲音が父親との記憶を回想したときのように、過去の2人の気持ちを通じ合わせるような「繋がり」が見込めると思ったからかもしれません。記憶は過去だけじゃなく、未来にも続いていくものなのですから。

 

 

総括

 さて、以上で13話本編の分析はあらかた終わったので、前回提起した問題に対して解答を与えましょう。最初に述べた通り、最終的には感覚的に答えを出さざるを得ませんでした。


「こっち」と「そっち」

イメージとしては、13話Bパートの玲音の世界と普通の世界との区別が一番わかり易い用に思えます。より理屈をこねて説明するなら、本来人間の意識とそれが集まって創発した意識とは別の世界にあるはずのものであって、誰かが勝手に繋げなければ交わることはありませんでした。その繋がりを切った上で、玲音が本来いるべき側を「こっち」。普通の人間が要るべき場所を「そっち」とするのが適切だと思われます。

 「つながってるからそっち側のどこにだっている」、といったときの「繋がってる」という言葉の意味は、人間の脳細胞が人間の意識にたいして持つ意味での「繋がってる」という言葉と等しいです。その意味では依然として玲音は他の人達と繋がっているのですが、それは、英利が行ったような、玲音と他の意識とをその階層の区別なく繋げてしまうというものとは様相をことにしています。(集合と冪集合が繋がってるイメージ)


玲音は何か? どこにいるか?


 玲音は、「神」です。より正確には、人々の意識が集まって創発された新しい意識ですが、これを神と呼ぶのは間違っていないでしょう。結局のところ、玲音とれいんは同じものです。
 もちろん、玲音はそんなことははじめからわかっていました。それなのに、玲音は自分がれいんであることを受け入れることはできません。それはなぜか、という話は上でかなり詳細に渡って説明したのでここでは省きます。

 以上の説明で、目標は達成できたように思えます。

 この物語の最後を飾る次の言葉も、今では理解することができるでしょう。

 

「私はここにいるの。だから一緒にいるんだよ。ずっと・・・」(13話)

 

  長かったですが、当初の目的は達せられたように思えるので、ここで考察を終わります。読んでいただいてありがとうございます。(長かった)

 

 

『serial experiments lain』 考察メモ(3)前編 13話解釈のための問題設定と予備分析

 

 予告通り、今回は『lain』の最終話である13話について考えていきたいと思います。


 はじめに断っておきたいのは、わざわざこの回だけ特別に扱う理由は、単に最終回であるからというだけではないということです。実際、何を言っているのか、やっているのかわからない場面というのはこの作品にはたくさんあるわけで、この回についての考えを述べるだけでその営みを打ち切ろうというのなら、それ相応のエクスキューズが必要になります。

 このあたりをはっきりさせるためにも、まずは、「なぜ13話について説明できればこの作品の『考察』として十分なのか」という点について私なりの解答を与えたいと思います。

 

考察の考察

 もう少し視野を広げて、より一般的に、ある物語を考察するという行為について考えてみましょう。

 今日、ある作品に対する「考察」はどこででも見ることができます。Googleの検索窓に作品名を入れて、横に「こ」の文字を付け加えればよくわかります。その内実はさまざまで、方法論についても、展開予測や単なる感想にとどまるものから学術論文一歩手前のところまで、また、対象についても、本作のようなアニメや漫画から、純文学、果ては曲の歌詞にまで多岐にわたります。

 このような「考察」はもちろん個人の自由です。人がある作品から何を読み取るかは自由ですし、それを常識的な手段で表現し、公開することには何の問題もありません。

 一方で、本当に考察なんてものはその作品に必要なのか、という疑問を抱くことも、また自由です。とすると、次のような連想も不自然ではありません。「不必要な『考察』を掲げる人たちの大きな声でその作品の受容が歪められてしまうのは、果たして、正しいことなのか?」という連想です。具体的には、20年も前のアニメに対して賢しらに数万字にも及ぶ頭の悪い「考察」を書きたて、検索結果を汚染することは正しいことなのか、それは作品にとって迷惑以外の何物でもないのではないか、という疑問です。(自己紹介です)

 もちろん、私はこの記事にそんな「正当性」なんて求めませんし、私程度の記事がこの作品に対する未だ根強い人気に冷水を浴びせることができるだなんて考えることすらおこがましいです。しかし、それでも、何か作品の方から導いてくれるものがあって欲しいと思うのです。ある作品を見たとき、誰もが抱くであろうと信じている、「よく考えてみなければならない」あるいは、「よくわからないけど、ここには本当に大事なことが述べられているような気がする。そして、それは解き明かされるべきだ」という直観は本当に無意味で無根拠なものなのでしょうか? あるいは、それは口さがない人達が言うように、ペダンティック中二病患者を釣るために製作者によってまかれた餌にすぎないのでしょうか? 私がほしいのはこのような意見に対してたとえ弱々しくても反論できるような何かです。

 


本考察記事の目標設定


 そんな問題意識をもって本作品の最終話(13話)を見てみると面白いことに気がつきます。

 御存知の通り、冒頭、テレビの画面を映したようなノイズの中から、玲音が「こちら側」へと問いかけます。そして、この回の最後には、再び彼女が私達の前に出てきて、冒頭で述べた問に対する答えのようにも思えるメッセージを残していきます。つまり、よくよく見てみると、この最終話は「問題→本編→解答」という構造をしているわけです。

 あるアニメの最終話が、主人公による、視聴者に向けているともとれるような形での問題提起に始まる。そして、一番最後の場面に、同じくそれに対する答えのようなものが述べられる。こういう状況で、この問いかけと答えこそが、この物語が伝えようとした最も重要なメッセージだと主張することはさして奇異なことではないでしょう。

 とすれば、この作品が伝えようとしたメッセージは明々白々なものなのでしょうか?

 形の上ではたしかにそうです。でも、こんな答えで納得できる人はいないでしょう。何せ、13話冒頭の内容は雑にまとめると、「私はこっちにいるのかそっちにいるのか?」で、その答えは、「私はここにいる」なのですから。私たちはこの作品が発する最も重要な主張を形の上では手に入れることができましたが、その意味は依然として不明です。

 そう。普通に見ればこの作品は意味不明です。だからこそ、私たちは自然に次のような問題を設定することが可能です。

 

13話で提示された問とその答えは何を意味しているのか?

 

 これこそ、私達が探していた、「考察」のための導きの糸です。というのも、この問題の意味を問うという目標を設定するという一見小さく見える一歩だけでも、私たちは次のように多くのものを得ることができるからです。

  • 「考察の正当性」
     何はともあれ、問題とその解答は形式的に与えられたのだから、それを形式的に、つまりは比較的論理的な方針で解きあかそうとする試みは咎め立てられるものではない。解答を提示しないまま読者への挑戦状だけで終わったミステリーに対して私達が意見を述べることができるように、私達もこの問を解こうとする限りにおいてこの作品を「考察」してもよい。この問は開かれている。
  • 「考察の終点」
     もし、作品に対する「考察」なるものを「作品に対する考究」と定めるなら、それは終わりないものとなる。しかし、作中である問題が提示され、それを解くことを目標として掲げるなら、その行為の終了を持って「考察」に一段落つけることができる。ある程度明確なゴールを設定できることは本作のようにさまざまな解釈を許すような作品を扱ううえでは大きい。よくわからないさまざまなものの中で、確実に説明できなければならない小領域を切りなはせることは重要である。
  • 「考察の方針」
     私たちは問も答えもすでに手に入れている。それなのに、何故それがわからないのか? 簡単である。「そもそも何を問うているのかが理解できていない」、「さらに、問がどのような答えを要請しているのかも理解できていない」、「問と答えは分かったがそれがどのように導かれたのかが理解できない」……
     さらに重ねて、「何故問が理解できないのか」、「何故…」、と繰り返していくことができる。これは難しい問題だが、例えば今回のような場合は指示語や指示対象を明らかにする、どんな言葉で問われているか、その言葉は作品中でどのように使われたのか、など、可能な限り今あるものを綿密に分析することが初手であることは間違いない。


 いままではっきりとは書かなかったのですが、実はこの作業こそ私がこの3回に及ぶ(4回になりましたが)考察記事でやりたかった唯一のことです。今更こんなことを言われても困るかもしれませんが、私は前回前々回の記事が直接正しいことを言っているかどうかにはほとんど興味がありません。私はこの作業を行うことにどれだけ貢献するかということ以外で前回前々回の記事を評価するつもりはありませんし、だからこそなかば強引な論法を振りかざしたのです。とはいえ前の記事を軽視するつもりもありません。問題というのは、案外それを理解することや、それがどのような地平に対して開かれた問なのかを理解するほうが解決よりも難しかったりするものです。その意味では、本編よりもその準備により多くの字数を費やしたとしても何の不思議もないでしょう。

 さて、やることははっきりしています。まずは、今ある問いとその答えを可能な限り綿密に、形式的に、多くの人が納得してくれるような形で、なるべく主観を交えずに、分析することです。非常に難しい課題ですが、できるかぎり取り組んでみようと思います。

 

問の予備分析

「ーーえっと、私またわかんなくなっちゃって…… 私がいるの、こっちなのか、そっち側なのか。
 私、そっち側のどこにだっている。それは知ってるの。だって繋がってるんだもの。でしょ?
 でも、私の、本当の私のいるところってどこ? あ、本当の私なんて、いないんだっけ。私は私の存在を知っている人の中にだけいる。けど、それだって、今こうやってしゃべっている私は、私、だよね?
 この私って、私って、誰?」
(13話冒頭 平仮名だと読みづらいので「あたし」を「私」に変えました)


この問のさしあたりの意味
 私たちはゼロから始めなければいけないわけではありません。前回までの記事で行った考察(正確には「前-考察」)によって、私たちはすでにこの問の大まかな意味、さしあたって分析を進めていくのに必要な意味は理解できています。だいたい次のような感じです。

 玲音は、この物語の主人公であり、この物語は彼女の一人称視点で語られている。彼女が彼女の視点から物事を見ているという限りで、彼女の存在は疑い得ない。しかし、彼女の存在から、そのありとあらゆる特徴を奪い去ることは可能であるし、そもそも彼女には作られた目的があったのだが、その目的は彼女ではない彼女、「レイン」によって果たされており、彼女は彼女の本質と全く関わり合っていないように思える。本質に関わっていないはずなのに、彼女の視点から世界を見ている彼女にとって彼女の存在はやはり、疑い得ない。じゃあ、「玲音」とは何か? その生み出された目的や本質と全く関わり合わず、主観的には普通の内気な女子中学生で、にも関わらず、やろうと思えば世界を意のままにすることができる彼女とは一体何なのか。一言で言うと「玲音とは何か?」

さて、以上のように把握した上で、細かいところを見て理解を深めていきましょう。

 

「また」わからなくなる
 「また」、という言葉の存在によって、この問は本編と同じ時間軸で発されたものだということができます。少なくとも、この問が、常にこの作品をこのままの形で貫いていたような無時間的な問ではないということです。この問には、本編とリンクした時間軸において発せられるあるタイミングがあり、状況によっては発することができなかったりするわけです。


 問が時間に依存したものなのかそうでないかということは極めて重要です。前者に答えるだけなら、答えるために必要なその作品に対する理解は、1話の内容、2話の内容、3話の内容、……と、それぞれをそれを見た当時に見たときの印象を元にするだけで十分です。しかし、問に発されたタイミングがある場合、特に本作のようにあるキャラクターの主観に物語が依存している場合は、「n話の内容」をそのまま捉えるだけでは不十分で、「n話に対する問いが発された時点での解釈」まで踏み込まなければなりません。つまり、この問に答えるためには、『lain』の内容を無時間的に捉え理解するだけでは不十分であり、13話冒頭から振り返ったときの各話を理解するのではなくてはなりません。言い換えれば、「8話は何を言っていたのか」ではなく、「13話の地点からすると8話は何を言っていたということになっているのか」を考えなければならないのです。


 前回の記事で、私が「記憶」を捨てて「目的」をレインの存在原理だと主張した最大の理由がこれです。1から12話を上で言った通りの意味において、「無時間的」に捉えれば、正しいのは「記憶」からレインを解釈することです。その説を退けたのは、私の目的からすると、問題にすべきは、12話の12話地点でどういう意味を持っているか、ではなく、12話を13話から見るとどういうことになっていたか、の方だったからです。


 もっと極端な話をすると、実は、この問に答えるためには「レイン」という存在に対する直接の解釈は必要ありません(「レイン」は13話では出てこないし問題にもならない)。なので、「レイン」をあの激しい性格の一個体として捉えるのではなく、それをもっと推し進めて、「岩倉玲音の理想的な姿」とか「本来あるべきだった岩倉玲音」だとか、この問とあう形で読み替えることは可能です。(もちろん、本編に忠実であるべきです)。前回の私の「レイン」解釈に対する違和感はこれでだいたい解消できると思います。


「こっち」と「そっち」
 発せられた状況からすると、視聴者から見て、こっち=画面の向こう側、そっち=画面のこちら側、と考えるのが普通かもしれません。が、はたして、この作品にそんなメタな視点を持ち込む必要があるかはまだ疑問のままですし、これがファイナルアンサーだという確証はありません。解答が「私はここにいる」である以上、「ここ」と「そこ」に意味を与えることは、この問題を解くことと等しいわけです。なので、この言葉の意味は今の段階では踏み込むべきではないでしょう。同様に、ワイヤード/リアルワールドのことだと考えることもできますが、今の段階では深くは追わないことにします。


繋がっているからそっち側のどこにだっている
 そっち側のどこにだっている、というのは、lainのことでした(一回目の記事参照)。逆に、「そっち側」とはlainがいる場所だということになります。
 繋がっている、というのは、lainが玲音と繋がっていること、玲音がlainを手足のように使役できることでしょうか。とりあえずの理解はこんな感じでいいでしょう。

 

本当の私はいない、私は私を知っている人の中だけにいる
 「本当の私」とは玲音のことです。文章全体は英利の思想を意味します。具体的には前記事で引用した12話の玲音の発言を見るわかりやすいです。


またわからなくなる
 説明の都合で最後に回しました。「またわからなくなる」ということは、ある地点でわからなくて、それが一回わかって、それがさらに「またわからなくなる」ということです。ただでさえよくわからない作品なので、こういう考えればわかりそうなところはきちんと詰めていくべきでしょう。

  • わかった
     12話冒頭で彼女は「わかった」と言っています。

    「なあんだ、そうだったんだ。世界なんてこんなに簡単なものだったの。あたし全然知らなかった。あたしにとって世界は、ただ怖くって、ただ広くって……、でもわかっちゃったら、何だかとっても楽……」(12話)

     


     その後の場面で、玲音はありすに「みんなのきおくなんてただのきろく」とメールを送り、その後、13話冒頭と同じ演出で、「人は、人の記憶の中でしか……」と語りかけます。彼女が「わかった」内容はこのあたりでしょう。
  •  わからなかった
    とすると、わかる前は、この場面の前あたりでしょう。具体的に指摘するのは難しいですが、とくに誤解なく理解していただけると思います。そのとき、彼女は「あたしにとって世界は、ただ怖くって、ただ広くって……」と思っていたことも指摘しておきます。
  •  またわからなくなった
     同じく、12話に、「わかんないのは、あなたのこと、神様」とあります。これが直接的に指示しているのは、英利に「権利」を与えたのは誰かということです。この「わからない」はその直前にありすの行動の影響を受けての言葉であることも指摘しておきます。

もちろん、これらがそのまま13話で彼女が「わからない」といっていることの内容ということにはなりません。私がやったのは単に作中で彼女が「わからない」といっている箇所を持ってきただけであって、これが13話で直接問われている「わからない」だとするのは飛躍です。が、常識的に考えればこの問や、このような問を発せざるを得なかった彼女の感情が、13話の問につながっていくことは期待できるでしょう。


 こういうふうに考えることもできます。最初に、「また」のところで分析したように、私達が扱わなければならないのは、「12話で何が言われたか」ではなく「13話冒頭では12話では何が問題になっていたことになったのか」です。13話冒頭で彼女がわからないと言っているのは、「わたしがこちらとあちらのどっちにいるか」なので、今挙げたような彼女の「わからなかったこと」は、最終的に「こちら側とそちら側のどっちにいるか」という問に回収され、この問いによって適切に表現されるようになったと考えることもできます。


 さて、問の方の分析はだいたいこんな感じになりました。
 ミクロに見すぎたので、少しマクロに、大雑把に捉えてみましょう。結局問われているのは何でしょうか。「私は何か?」と「私はどこにいるか?」です。では、この2つの問に答えればいいのでしょうか? 実はもう少しだけ複雑です。そのために、まずどんな答えが得られたのかも分析してしまいましょう。

 

答えの予備分析

「私はここにいるの。だから一緒にいるんだよ。ずっと・・・」(13話)

 問に対する答えは前半部分だと考えていいでしょう。「だから」で結ばれた後半部分は、解答から玲音が下した決断です。先程、この問と解答が『lain』で最も重要なメッセージだと言いましたが、少し訂正する必要がありそうです。『lain』で最も重要なメッセージは、この後半部だと考えるべきでしょう。とはいえ、この問題を解かなければならないことには変わらないので、依然として考察の方向性は変わりません。


 さて、得られた答えは「私はここにいる」です。聞かれたのは、「私はどこにいるか」と「私は何か」です。すると答えが1つ足りません。これはどういうことでしょうか?

 

(補足
私が誰か? に対する答えが、私は一緒にいる、だと考えることもできます。とするとここから下の議論の見た目は大きく変わりますが、このへんは簡単な表層の解釈問題なので見た目ほど大きく結論が変わることはありません。何にせよ、「だから」という接続詞で結ばれている以上、「どこにいるか」に答えるのが最優先でしょう)

 

 鋭い方なら、問題に対する対処は何も解決だけではないと考えるかもしれません。問は、解決するだけでなく解消することも可能です。解消するとは、問題のよって立つ基盤、その問題を発する意味そのものが探求の過程で消えてしまったということです。「何か」の問題は解消されたのでしょうか?

 この考え方はそこまで悪くないと思いますが、私は別の解釈をしたいと思います。間違いは私達が、問題が2つあると思ってしまったことにあります。実は、『lain』という作品においては、この、「何か」と「どこにいるか」という問題は全く同じもので、区別されないのです。

 一番はっきりわかる場面は13話後半の玲音とレインの会話です。

れいん「じゃあ、貴方は何なのよ。玲音」
玲音「私、私は……私はどこにいるの?」
(13話)

 この場面の玲音の台詞は、れいんの発言を繰り返したものだと考えて良さそうですが、れいんの「何か」という問いを、玲音は「どこにいるか」としています。


 他にも、英利の言う神様の定義もそのようなものでした。定義とはそれが何であるかを示したものですが、英利はその答えを普遍として存在すること、つまり、どこにでもいることだと見なし、存在する「場所」という観点で「何であるか」ということに答えます。

 以上見たように、本作においては、私達の日常の用法からすると多少の違和感はありますが、基本的に本作では、「何であるか」と「どこにいるか」は同じことを意味します。より正確に言うなら、本作において、「何であるか」を根源的に規定しているのは「それがどこにあるか」だということになります。

 もちろん、場所を聞いているからと言って、それがどこでもいい場所なわけではありません。問にはそれが開かれている地平があります。この場合は、先に見たように、「ここ」と「そこ」という言葉で観念されるような「場所」概念に対して開かれているわけです。
 
((似非)哲学的に見ると、玲音の疑問は、実存とは何かという大問題なのですが、本作はこの実存的な問題を最終的には場所論的な設定に落とし込んで解決するということです。実存的な問題に決定的な解を与えることは非常に難しいことを考えると、個人的にはこの製作者の判断は英断だと思っています)

 

 これで、問とその答えについては一通りの見通しをつけることができました。さっさと「こちら」と「あちら」を定義してしまえばここで考察を終わらせることもできます。もうこれ以上この問題に対するヒントが無いんだったらそうせざるを得ません。しかし、まだできることは残っています。


 13話は問題と解答に挟まれたサンドイッチ構造をしているということでした。となれば、問題と解答の間の部分、13話の本編こそ、玲音がその問題をどのように解いたかというプロセスに相当すると考えて良さそうです。このプロセスを細かく分析していけば、私たちはこの問題と解答に対してより近づいていくことができそうです。

 

 

 予想外に長くなったので、記事を分けます。


 次回は13話の本編の幾つかのシーンを見ていき、最終的に「玲音」が何に出会ったのかを特定した上で、そもそも玲音にとって本当に問題だったのは何なのか? ということについても考えていきます。その作業をもってして、この『lain』という作品の考察に対して、(上で述べたような意味での)「一段落」をつけられると思います。

 

 

 

追記:改めて見てみたら、13話で「どこにもいないんだったらあたしは誰?」って言ってました。なので、実質的には問は1つだったという上で述べた考えは修正が必要で、やはり2つの問を両方並列で扱うのがいいような気がします。

 

『serial experiments lain』 考察メモ(2) レインと玲音

 

 

 前回は、英利の計画まわりの話をしました。今回は、予告通り、今回は「玲音とレイン」について考えます。その際、12話の英利と玲音の会話についても考えてみます。

 

レインに関する情報の整理

 説明の都合上、レインの方を先に考えます。まず、彼女に関する作中の情報を整理するところから始めましょう。
 
 レインが初めて登場するのは2話の冒頭です。アクセラの少年がサイベリアで彼女を目撃したシーンです。同じ日に、ありすたちも玲音とよく似た少女を目にしていることから、その日その場所に彼女がいたことは間違いないでしょう。
 
 しかし、玲音にはそんなところに行った記憶は一切ありません。2話以降でも、特にサイベリアを中心として、タロウやJJなどが彼女を目撃しているような描写がありますが、やはりこれも玲音の記憶とは合致しません。
 
 この、まるで玲音が分身したかのような奇妙な現象のトリックは9話のレインとタロウとの会話で説明されます。
 
 

レイン「ワイヤードの中に、あたしがもう一人いるかどうか、それはあたしにもわからない。でも、このリアルワールドにあたしがもう一人居るなんてことは絶対にない」
レイン「肉体を持つもう一人が姿を見せたのはあのクラブだけ。あそこにいた人の記憶だけを操作すればいいんだよね」

タロウ「俺じゃないよ。でも、JJのとこに流されてくるデータに、こういうイフェクトがあるっていうのは、知ってた」(9話)

 


 直接根拠となる台詞を引用するのは難しいのですが、この場面周辺の流れを丁寧に整理すれば、玲音とレインが同時に存在していた原因はサイベリアの音楽にあるとわかります。サイベリアの音楽には特殊な「イフェクト」があり(たとえばレインの幻覚を見せるといった)、それが、彼女が同時に存在することを可能にしていたということです。つまり、このレインは作り物だということです。
 
 では、レインをそういった小道具によって作られた幻覚だとみなせば作中の出来事全てを説明できるのでしょうか? もちろんそんなことはありません。
 
 私たちはさまざまな場面で、「レイン」がワイヤード上での玲音のアバターのように用いられているのを見ています。6話でホジスン教授と話すのも、7話で橘総研の男と話すのも、8話で「神」と話すのも、9話でタロウを追い詰めるのも、10話で英利と対峙するのも、「レイン」です。ここでの「レイン」の行動は「玲音」のそれと一致しており、「レイン」は「玲音」の別人格のように描かれます。この「レイン」が、さっきのサイベリアでの「レイン」とは異なる(物理的な)原理で生み出されているのは明らかでしょう。

 


レインの存在論的定位

 とすると、私たちはこの2人のレインを分けて考えるべきなのでしょうか? つまり、例えばレイン1とレイン2に分けて考えるべきなのでしょうか?
 
 その考え自体を間違いだと切り捨てる根拠はないと思います。いま確認したように、作中ではこの2人の存在の依って立つ基盤は異なっているわけで、2人が全く別種の存在だという主張には理はあります。
 
 しかし、やはり、この異なって見える二つの存在を全く同じ外貌で(あるいは全く同じ「レイン」という名前で)描いた製作者の意図を汲むべきだと私は考えます。つまり、この2種類の異なって見えるレインを同じものだとして解釈するべきだということです。
 
 実際、それは不可能な解釈ではありません。さっきさり気なく括弧に入れて書きましたが、レインが2種類いるように見えるのは、私達がそれを「物理的」な観点から見たからです。「レインは2人いる」という判断を下した時、私たちは無意識に人間や人格と言ったものを物理的実体と同一視しました。それゆえ、私たちは「物理的には音楽という現象で生み出された実体を持たない仮象」と「岩倉玲音の肉体に宿った意識の1人格」を区別しなければならなかったのです。
 
 しかし、物理的な限界を超越しようという計画を立てるキャラクターが登場する作品で、そんな「物理的原理」を絶対のものだとみなす理由なんてどこにもありません。もし私達が、上に述べたのとは違った新しい人格の定義、すなわち、レインの存在原理(存在論的定位)を適切に決め、本来分裂するはずだった彼女を1つの存在として扱うことを可能にしたなら、その試みは間違いだとはいえないし、もしそれでこの作品についてより多くのことを説明できるのなら、正しい選択だとさえ言えるでしょう。

 

 では、そんな解釈を可能とする「存在原理」とは一体どんなものでしょうか?

 

 この選択にも自由度があります。メタな話をするなら、私たちはすでにその1つを無意識に使っています。私達が玲音とレインを区別できているのは、彼女の態度や演技が明らかに異なっているからです。つまり、私たちは「外見や態度や表情が異なるならそれは別の人間」という原理をもとに彼女たちを区別しているわけです。これも立派な、「レインを1つの存在として捉える」原理であるといえます。今はメタな話をしましたが、この2人の作中での態度の違いはタロウなどにも指摘されているので、この原理を作中の現象に適用する合理性もなくはありません。
 
 とはいえ、こんな見方で満足するわけにはいけません。私たちが求めているのは単にこの条件を満たす解釈ではなく、作中に根拠も一応はあり、それでいてこの作品について多くを語ってくれるような本質をつく解釈です。
 
 その意味では、最も「正解」に近いのは次のような解釈なのかもしれません。
 

玲音「人は人の記憶の中でしか実体なんてない。だからいろんなあたしがいたの。あたしがいっぱいいたんじゃなくて、色んな人の中のあたしがいただけ」(12話)


 要するに、レインを1つの存在たらしめるのは、「人間の実体を記憶だとみなす」という原理だという解釈です。つまり、他人の記憶と一致するか否かがレインをレインだとみなす判断基準だということです。人間を人間とみなす原理がこのようなものだとすれば、別にレインが複数いても問題ないということになり、逆説的ですが、これは複数いるレインを1つのものとして統合することを可能にします。「記憶」というのは『lain』のキーワードの1つであることからも、納得のいくものだと思います。
 
 しかし、私はここでもう一つの解釈をとろうと思います。それは次のような説です。

 

玲音「あたしは何もしないよ。あっちと、こっち側と、どっちが本物とかじゃなく、あたしはいたの。あたしの存在自体が、ワイヤードとリアルワールドの領域を崩すプログラムだったの」(12話)


 要するに、それが「リアルワールドとワイヤードの境界を壊すプログラム」である限りにおいて、レインはレインである、ということです。とはいえ、「プログラム」と言われても何のことだかわからないので、簡単に言い換えておきましょう。「プログラム」というものは、結局のところ何かの目的を達成するために作るもののことなので、この概念の本質は「目的性」です。この言い換えを用いると、レインがレインであることを識別する原理とは、「それが同一の目的を持っているか否か」になります。
 
 この説も、複数いるレインが1つの存在である説明を与えます。多少飛躍はありますが、この説の言っていることは、それぞれの存在はその生存する目的があり、その目的を達成する行動を取る限りにおいてその存在だとみなされるということです。だから、それが「ワイヤードとリアルワールドの壁を破壊する」という目的を満たすために行動しているのならば、その物理的基盤が幻覚であろうとある個人の肉体であろうと、それは「レイン」だとみなされます。また、さらに言えば、もともとは別の存在だったはずのある個人に対してそういう「目的」を植え込むことで、その人の中にある存在を「インストール」することができるわけです。つまり、この存在はその物理的基盤を移し替えていくことができます。これが、私が出したもう一つの解釈です。


(もちろん、「目的」を狭い意味に捉える必要はありません。誤解のない範囲内では、「存在理由」や「生きる意味」みたいに捉えて大丈夫です)
 

 さっきも書いた通り、この、「記憶」と「目的」の二つの解釈でどちらがより正しい(この作品で直接言われたことに則している)かときかれたら、私は最初に挙げた、「記憶」解釈のほうが正しいと答えます。それでも私が2番目の解釈を取ろうと思うの理由は次のとおりです。

  • この作品に「記憶」という側面からアプローチする方法は不必要に大きな困難に立ち向かわなけれならないから。(この理由は、いままで私がこの作品の最重要要素である「記憶」にほとんど触れなかったことにも関係あります。余裕があれば詳細を記事にまとめようと思います)
  • 結局のところこの二つの見方はそれほど大きく変わるものではなく、後者の解釈を取ると多少の齟齬はでるものの、それらはあまり本質的ではない上に、こちらの解釈をとるほうが遥かに見通しがいいから
  • 2とほとんど同じだが、この「記憶」という見方は最終話で否定されるから

 


 この3つの理由に対する根拠は今の段階では与えられませんが、おそらくは説明を進めるうちにわかっていただけると思います。なので、納得できない方がいるかもしれませんが、後者の説で進めていきます。

(もしかすると、引用した箇所がレインではなく玲音に関係するものだということが気になっている方がいるかもしれませんが、これも後で説明します。簡単に言うと、この当時の英利も玲音も、実は玲音とレインの違いを理解していないのです)


英利ふたたび

 前節では、レインの存在論的定位について確認しました。得た結論は、レインとはある目的を持った存在であり、そうである限りにおいてレインである、ということでした。レインをレインたらしめる存在原理は、「それが同一の目的を持っていること」でした。

 実は、この存在原理を用いて解釈できる(正確に言うなら、この存在原理を用いなければ1人の人間とみなすことができない)キャラクターがもう一人います。もちろん、英利政美です。それは、以下のことを確認すれば十分でしょう。

  • 作中で登場する英利はプロトコルに組み込まれた「プログラム」である
  • 英利は遍在している。原理上彼が常識的な意味で「1人」である保証はどこにもない。

 では、彼の「目的」とは何でしょうか? 作中で特に明確に語られているわけでもなく、そもそも「目的」という概念自体私が勝手に導入したものなのでしっくり来るかどうかはわかりませんが、「人類の進化」とでもしておけば特に問題はないでしょう。

 

英利は何を間違えたのか

 さて、以上の準備を元に12話の後半の玲音と英利の会話を読み解いていきましょう。その上で、彼が何を間違えた(もう明白だと思いますが)のか考えていきます。これが「玲音」を理解する鍵になります。

 長くなりますが引用します。(ありすの言葉はカットしました)

玲音「あなたができたことは、ワイヤードからデバイスを解放すること。電話とか、テレビとか、ネットワークとか、そういうものがなくちゃあなたは何もできなかった」
英利「そうさ。それは人間の進化に伴って生まれたものじゃないか。最も進化した人間はそれに、より高い機能を持たせる権利がある」
玲音「その権利、誰がくれたの?」
英利「ーー」
玲音「(中略)集合的無意識を意識へと転移させるプログラム。本当にあなたが考え出したことなの?」
英利「何を言いたいのだ。まさか、まさか本当に神がいるなどと」
玲音「どっちにしろ、肉体を失ったあなたにはもうわからないこと」
英利「(中略)僕が君をこのリアルワールドに肉体化させてあげたんだぞ! ワイヤードに遍在していた君に、自我を与え、それに」
玲音「あたしがそうだとしたら、あなたは?」
(中略)
玲音「あなたは確かにワイヤードでは神様だった。じゃあ、ワイヤードができる前は? あなたは、ワイヤードが今のようにできるまで待っていた、誰かさんの代理の神様」

(12話)

 

 結論から言ってしまえば、ここでされている話は至極あたりまえの議論で、要約すると、「手段/目的という連関で人間存在を定義してしまったため、英利は自分自身が何か高次の目的のための手段であることを否定できなくなってしまった」ということです。具体的には、英利は「集合的無意識を意識へと転移させるプログラム」=「レイン」を作りましたが、彼自身も何か上位の存在によってプログラムされたものであるということを否定できないということです。

 問題はなぜこれらの事実が英利にとって致命的なのか、です。これは以下の2点にまとめるられます。

 

  • 彼の目的は、人類を進化させることで、それは具体的には、人間が何か上位の存在によって規定されているという現状(最大のものは「唯物論の言葉」)を打開しようとすることを意味する。彼は確かに、「唯物論」すなわち物理的拘束からは自由になれた。しかし、その際に彼は「プログラムとしての人間」、すなわち、「目的によって規定される人間」という概念を使用してしまった。なので、結局、彼は何かに規定されてあるという人間の状態を乗り越えることができなかった。

  • 上の点は基本的に地球上の誰もに対して当てはまるので、決定的な批判とはなりえない。英利にとって更に問題だったのは、彼が肉体をすでに捨ててしまっていたこと。彼は、人間が目的論的な存在であるということを決めてかかり、完全にそういうものに自分を置き換えてしまった。だから、彼は間違いに気がついてもやり直すことができない。

 注意してほしいのは二番目の理由です。これは、直接には上の「肉体を失ったあなたにはもうわからないこと」という言葉の説明になりますが、この批判が彼にとって決定的な意味を持ち得た理由は、単に「肉体を失っ」てしまったからではなく、その際に自分をプログラムにしてしまったからです。

 この微妙なニュアンスの違いは非常に重要です。この考察記事がこんなに長くなっているのはこの微かな差にあると言っても過言ではありません。
 
 彼は実のところほとんど間違えていなかったのです。「肉体が人間の進化を留めている」=「人間は肉体を超える事ができる」=「人間にとって肉体は本質的なものではない」という主張自体は別に間違っていませんでした。その端的な証拠が「玲音」の存在です。次回説明しますが、肉体を与えられたことで生まれたにも関わらず、彼女に肉体は必要ありませんでした。なので、この12話の場面は、「ワイヤードと肉体」という対立軸を立てて肉体の方に軍配を挙げるようなものではなく、すでに「肉体」という旗は下げられている前提で、しかし「ワイヤード」の方も間違っているというシーンなのです。
 
 英利に間違っていたところがあるとすれば、自分自身にとって本質的な部分がすべて目的論的に記述できるということを信じきれなかったということです。これは正しい正しくないではなく信念の問題であって、だから、英利の提唱している説自体は何も間違っていません。ただ、そこには英利が英利だと信じる英利が含まれていなかったというだけのことです。
 (もちろん、普通の人はそれでも英利に共感できるだろうと思うので、その限りで彼が間違っていたということは可能です)


玲音とは?

 上で英利について書いたことをそのまま岩倉玲音に対して当てはめると「玲音」の存在が浮かび上がってきます。
 
 英利は自分を完全にプログラム化できると考えていましたが、そうしきれない残余が英利政美という存在の中にはあったということに12話後半で気がつきます。同様に、岩倉玲音という存在も、「ワイヤードとリアルワールドの境界を壊すためのプログラム」と定められましたが、そこにはこの目的に還元しきれないような残余がありました。これが「玲音」です。

 具体的には、中学生で、内向的で、ありすの友達で……といった存在です。しかし、よく考えてみるともう少し複雑です。

 再び英利の場合を考えてみましょう。英利は12話後半で上に書いたような事に気が付き、暴れますが、実はこの英利でさえプログラムなのです。つまり、この英利は英利ではなくエイリだということになります。同じことはやはり玲音にも言うことができて、それを「レイン」と名付けるかどうかはともかく、今挙げたような「玲音」の諸特徴をすべて「レイン」の側にもたせること、プログラムとして記述してしまうことは可能です。

 しかし、全てをレインに還元し切ることはできません。では、最後に残るものとは? それは、「玲音」が「玲音」にとって存在しているということ、今この記事を読んでいる人が自分で自分の存在を疑うことができないほど確かなものと考えているのと同じ意味で、「玲音」が「玲音」にとって存在しているということです。
 それは、この物語の主人公が「玲音」であったことを意味します。この物語は全てが「玲音」という少女の主観で綴られた1人称視点の物語だと言うことができ、それゆえに、視点である彼女の存在を私たちは疑うことはできません。彼女の存在は、私達の人生にとって私達が前提であるのと同じ意味で、この物語の前提なのです。
 
 しかし、あらゆる性質は与えられた瞬間に彼女から奪い去ることができます。その意味では、この物語の進行には「玲音」の存在を一切必要としません。

 何も持っていないはずなのに、「存在」だけはしている彼女。物語には何もかかわらないはずなのに、彼女がいなければ何も始まらない存在。絶大な力とリンクしていながら、あくまで平凡な女子中学生としての精神構造しか持っていない少女。だからこそ、彼女はこんな問題提起をしつづけます。

 

「あたしって誰?」(13話)

 

 次回は、この問が『lain』という作品に対して持っている重要性を確認した上で、「玲音」がこの問題に対してどういう答えを出したのかについて、13話を題材に可能な限り考えていきたいと思います。

 

 


補足1


 玲音、レイン、英利の考え方が最も如実に現れているのが10話次の場面です。絶対にどこかで使いたかったのですが、タイミングがなかったのでここに置くことにします。(私はこのシーンを『lain』の作中で3本の指に入るくらい重要なシーンだと考えています)

玲音「もう一人の……」
英利「え?」
玲音「もう一人のあたしが……」
英利「もう一人じゃない。本当の君さ」
レイン「どっちでもいいよそんなの」
(10話)

 

補足2:本作での「記憶」概念について

『serial experiments lain』 考察メモ(1) 英利の計画とその周辺


 無謀ですが、アニメ、『serial experiments lain』の考察をやってみました。久しぶりに何話か見返したので。

 

 記事は全部で3つになる予定です。(1つずつ書いていくつもりなので、もしかしたらあとになって書き換えるかもしれません)


 本記事では英利の計画周辺、つまり、本作のSF的な部分の考察をします。
 SF要素が本作にとって決定的だとは思えず、どちらかと言うと本筋からは外れるうえに辻褄合わせがとてもむずかしいですが(結局いくつも恣意的な仮定を入れました)、それでも無しで済ますというわけにはいかないので、まずこの記事から始めたいと思います。


英利の肉体観(参考)

 最初に、参考のために英利が肉体に対して抱いているアンビバレンツな態度について確認します。あくまで参考なので、面倒なら次節まで飛ばして頂いて結構です。

 

 人が肉体を捨てようとする動機は色々あります。たとえば、病気でつらいとか、歳を取って醜くなるのが嫌だとか、容姿に自信がないとか、永遠に生きたい、などなど。

 

 これらが前提にしているのは、「人間には肉体と魂があって、魂のほうが本質的である」みたいな考えです。ある人間を規定するものは魂であって、非本質的な延長である肉体は人間が「本当に、本来的に」生きるのには必要がない。だから、それが害をなすのなら捨てても問題はない。みたいな考えが今挙げた例の根底にはあるわけです。

 

 英利政美の肉体忌避も基本的にはこの延長上にあります。しかし、そこには少しだけ異なった観点が導入され、それが彼の持つ両義的な態度につながります。

 

 では、彼の考えを見てみましょう。

 

「人の肉体はその機能の全てを言語化し、唯物論の用語によって余すことなく記述することができる。肉体も機関に過ぎない。その物理的な制約が人の進化を留めているのだとしたら、それは人という種の終わりをいもしない神によって決定づけられているようなものだ」
(12話)


 ここでいう「唯物論」は、「機関」と彼が言っているように、「決定論」という意味で捉えて問題ないでしょう。

 

 これは、ざっくばらんに言えば物理的運命論です。たとえば、私達の身体は脳を含めて全て原子でできていますが、原子というのは要するに物理法則に従って動く小さなボールなので、初期配置さえわかってしまえばその後の動きは完全にシミュレーションできます(=「唯物論の用語で記述する」)。私たちは普段自分の意志で行動しているように思えますが、この見方からすると、実際は身体の分子が勝手に物理法則に従って動いているだけなので、意志や自我なんてものは幻だということになります。

 

 さて、彼はこのような唯物論を、「進化」を留めている「物理的な制約」とみなしています。そして、肉体から開放されれば「進化」できると考えています。そして、彼はその「進化」を目指すわけです。

 

 しかし、このような態度は一見すると妙です。というのも、

 

  •  もし物理的世界が上位だとすれば、先程の「意志」の議論と同様に、英利の「進化」への行動すら最初から規定されていることになる。なので、もし本当に進化できるとすれば何かしらの形で人間の自由意志が保証されなければならない。実際、ケンジントン実験などで超能力の存在自体は認められている。(12話で玲音が英利に対して反論しますが、この話とそれとは直接関係ないと私は思っています。この場合は「いもしない神」によって決定づけられているだけで、神の存在はでてきません。12話の問答に対する私の解釈は次回説明します)
  •  しかし、自由意志が完全に保証されるのなら、物理的現象はその反映に過ぎない。物理的な現象は人の意志に完全に服従しているのだから、人間が物理的な現象に規定されるというのは変だということになり、唯物論が人間の進化を止めているなんてことは言えない。

 

 ということで、英利は、今現在のところ、人間が完全に物理世界に従属しているとは考えていませんし、かといって、人間の意志が物理的世界を完全に凌駕しているとも考えていません。現状、人間はほどほどに物理的で、しかし、一応の自由意志はあるということです。つまり、英利は肉体に対して両義的な態度をとっているのです。
(実はどちらかに完全に寄せて解釈することもできなくないとは思うのですが、話が複雑になるのでその方向で考えるのは諦めました)

 

 以下では『lain』のSF的な部分の考察をしてみようと思っていますが、そのとき「意識」や「無意識」という言葉が出てくると思います。しかし、私はこの言葉に対して内実を与えることはできそうにありません。とはいえ、無視するにはあまりに大きな区別なので、よくわからなくなったときはこの意識/無意識の対立を今挙げた意志/物理に置き換えてみてください。そうすれば少しはわかりやすくなるような気がします。

 

 本当なら、英利の使っている概念を分析して、このあたりの用語をしっかり統一するべきだと思いますが、その力は自分にはないことに加え、確証を得るのが非常に難しいので、下の考察では原作の表現に近いものを使っています。実際、必ずしも「意識/無意識=意志/物理」が成り立つとはいえず、場合によっては「本来的/非本来的」みたいな対立に置き換える必要もあると思います。「参考」としたのはそのためです。

 

英利の仮説

 さて、ここからが本論です。まず、英利が抱いてる世界観についてまとめます。といっても、彼の考えはほとんど正確だと私は思っているので、これは『lain』の世界設定の考察でもあります。

 

「橘総研の主任研究員だった英利政美は、地球を覆うニューラルネットワーク仮説をさらに進化させ、地球上の人間は全て、デバイスすらも必要なくワイヤレスネットワーク上に無意識下に配置されるという仮説を発表した」(9話)

 

 これが、英利の提唱する説です。

 

 内容はそこまで複雑ではありません。彼が言いたいことはこの言葉そのままで、つまり、人間の無意識は何もしないでもワイヤレスネットワークに接続しているということです。
(前節に書いたとおり、意識と無意識の違いについては気にしないことにします)

 

 繋がるためには何かしらの媒体が必要だと考えられますが、それが「シューマン共鳴」です。

 

「地球には、地球自らが持つ固有の電磁波が存在する。電離層と地表との間で、ELF帯に8Hzの周波数帯で常に共鳴が起こっている。これをシューマン共鳴と呼ぶ。この地球が常に放っているいわば地球の脳波は、人類にどれだけの影響を及ぼしているのか、未だにわかってはいない」(9話)

 

 要するに、人間の意識は8Hzの電磁波を用いて通信をすることができるということです。同じく9話でイルカが超音波によってネットワーキングを行っているという話がありましたが、これに近いです。そして、おそらく、これがワイヤードに変なノイズが紛れていた原因です。(もちろん、実際には地球上で8HZの共振電磁波帯があるからと行って、そこで通信できることにはならないと思います。なので、このへんは私の強引な解釈が入っています。しかし、脳波による通信というのに近いものはKIDSシステムでも実装されているので、全く間違っているということもないと思います)


第7のプロトコル

 以上のように整理すると、英利が第7のプロトコルと呼んでいるものの正体も何となくわかります。その前にまず、プロトコルについて簡単に説明します。

 

 本作でも言及している場面がありますが(8話)、プロトコルとは通信を行うための取り決めのことです。たとえば、郵便の場合は宛名と住所と郵便番号を書いてポストに投函することで相手に手紙を届けることができますが、これもプロトコルの一種と言えます。コンピューターネットワークにも似たような取り決めがあり、私達がとくに困難なく様々なデバイスで通信できているのはそのおかげです。そして、コンピューターネットワークで用いられるプロトコルの中で最も有名なものが本作でも出てきたIP(Internet Protocol)です。

 

 プロトコルが、「異なるデバイスでも通信できる」という機能を提供することを理解するのに重要なのが、プロトコル・スタックという考え方です。これは、インターネットのために1つのプロトコルを決めてしまうのではなく、機能を細分化、抽象化した上でそれぞれを独立の層に分け、下位のプロトコルブラックボックス化するように設計するという考え方です。たとえば、インターネットで一般的に使われているプロトコルの場合、以下のように分けます。

 

  • 「物理・データリンク層」(簡単には、物理的に繋がった隣接ノード間の通信。伝送媒体の違いも考慮する。Ethernetなど)

  • 「インターネット層」(「物理・データリンク層」で実現された隣接ノード間の通信は前提として、ネットワーク上の任意のノードから任意のノードへのパケットの配送を行う。IP)

  • トランスポート層」(「インターネット層」で実現されたエンドツーエンドの通信を前提として、通信の信頼性を保証する(TCP)。あるいはほとんど何もしない(UDP))

  • 「アプリケーション層」(以上で実現された通信の上にネットワークアプリケーションを作る。HTTPなど)


 上にあるように、IPというのは狭い意味ではインターネット層でエンドツーエンドのパケット配送を行うプロトコルです(実際は、インターネットのプロトコル全体を指してIPということもあり、本作ではこっちの意味で使われている気がします)。

 

 特に重要なのは「インターネット層」と「物理・データリンク層」を分けたことで、これにより、インターネット全体での配送の取り決めを変えることなく、物理的な伝送媒体を変えることができます。インターネット層のプロトコルからすると、隣接ノード間での通信を保証してくれれば、下のレイヤーの物理的媒体も、そもそもノードを何にするかの選択さえどうでもいいのです。(一般に、インターネットは電気的に情報を送信することが前提だと考えられているように思えますし、実際は殆どがそうなのですが、今言ったことからすると、極端な話、インターネットの物理層に全然別の媒体を利用することさえ可能です。たとえば、皆さんは今このページを見るためにインターネットを使っていますが、物理・リンク層として郵便を採用することも原理的には可能です。このような性質がインターネットが爆発的に普及した原因の1つです)

 

 さて、以上長々と説明してきましたが、これで英利が「第7のプロトコル」としてどういうものを考えていたのか何となくわかってくると思います。

 

 確認ですが、英利の提唱していた説は、「人間の(無)意識はシューマン共鳴という物理伝送媒体を使って通信できる」というものでした。だとすれば、第7プロトコルの「シューマン共鳴ファクター」とは、この意識間のワイヤレス通信を扱う物理・リンク層のプロトコルのことだと想像できます。また、おそらく人間の意識間の通信というものを試みた先駆者がホジスン教授とKIDSシステムで、英利はこれを参考にしたのだと考えられます。

 

「そう。仰る通り。アウターレセプターが受容した微弱な脳の電磁波をコンバートする、一種の脳の一部の機能だけを肥大化させたのが、KIDシステム、KIDSと言うものの正体さ」(6話)
「(子どもたちがプレイしているゲームに対して)しかも、アウターレセプターなど使わずして、現象を起こせるようにアップデータまでしてね。エミュレーションであそこまで広範囲に影響をおよぼせるとは、実に優秀だと言わざるをえない」(6話)

 
 最後に、このプロトコルでできることを確認してこの節を終わります。

 

 このプロトコルが可能にするのは、人間の意識がWWW(本作で言うワイヤード)に他のデバイスとの差別なく参加することです。我々が普段通信相手のコンピューターが何かを気にしないように、このプロトコルによって、人間の意識に対して、コンピューターに対するのと全く同じやり方で通信することができるようになります。具体的に言えば、たとえばブラウザのアドレスの部分には普通アクセスしたいページの場所を示すIPアドレスを入れますが、その代わりに誰かの意識に割り当てられたIPアドレスを入れれば、その人の頭の中を見ることができます(もちろんこれはものの喩えです)。これが、第7のプロトコルが可能にすることです。


lainとは何か

 さて、一旦話を昔に、作中でワイヤードが誕生する以前に戻します。

 地球上の恒常的な物理現象なので、そのときも依然としてシューマン共鳴は存在しました。つまり、人間の無意識はこの独自の伝送媒体を使って情報を交換することができたということです。

 

 しかし、これには当然限定があります。おそらくこのネットワークにはインターネットのように任意のノードから任意のノードへと情報を伝達する効率的な仕組みはありません。自然、人は繋がっているにしてもそれが大きな問題になることは、(たとえばケンジントン実験みたいに無理やりに何かを起こそうとしない限り)ありません。人々がつながっているにしても、それは非常にローカルなあり方だったと言っても構わないでしょう。

 

 さて、そこにワイヤードが、つまり、世界中を覆う電気的な伝送網ができるとします。英利の仮説によれば人間は無意識下にワイヤレスネットワークに接続されるのですから、非常に効率的で正確な伝送はできないにしても(そのためのプロトコルがないので)、無意識はより広範囲に、少なくとも以前よりは効率的に通信を行うことができるようになります。つまり、個々の人間の無意識がネットワーク上に現れ、奇妙な現象が起こり始めます。この個人の無意識が、おそらくは「lain」と呼ばれる岩倉玲音の一形態の元となります。

 

 ここで更にプロトコル7が導入されます。そうすると何が起こるか? 人の無意識がワイヤード(WWW)と完全にかつ効率的に接続できるようになります。すると、

 

「ダグラス・ラシュコフは、地球上の人間同士がネットワークで相互接続する事により、地球自身の意識をも覚醒させ得ると主張している」(9話)

 

というラシュコフのニューラルネットワーク仮説より、この無意識の接続により、1つの(一番上位の存在があるという意味で1つの)意識が創発します。

 

 話が前後しますが、英利はこの最上位の意識に前もって1つの入れ物を用意しておきました。岩倉玲音のことです。これにより、この意識を構成する個々の意識は遡及的に玲音の形をとることになります。これがlainの正体です。

 

(個々人の無意識と1つの最上位lainがあるのではなく、人の意識間の無数の接続ごとに1つずつ創発されうる意識があると考えるのが自然だと私は思います(数学的に喩えると、人類の意識全体を1つの集合としたとき、その冪集合の各要素が創発されうる意識になる)。このように、連続的に個人から集団、はては全人類までに至るという無意識観は、本作が参照したと思われるユング集合的無意識とも整合します。
もちろん、最上位の意識が完全にすべての部分を統合すれば、私達が手足を動かすように最上位の意識は下位の意識を制御することができます。(さっきの喩えでいうなら、冪集合の各要素集合間に包含関係によって定められる半順序関係が意識間の序列だということになります))

 

 個々人の無意識が玲音に統合される様子が特にわかりやすいのが8話で、「顔のない匿名の人々」→「玲音が自分の力を使ってサーチ」→「匿名の人々の顔に玲音の人形が刺さる(デュープ)」という流れになっています。

 

 この説を前提にすると、

 

「君は僕と同じさ。ワイヤードに遍在している。だから、どんなところにも、誰のところにも君は側にいたんだ。人に見られたくない事も君は見つめていた」(8話)
「君は元々、ワイヤードの中で生まれた存在なんだ。ワイヤードの中の伝説。ワイヤードの中のお伽噺の主人公ーー」(10話)

 

という英利の発言も理解できるような気がします。

 


英利の計画

 実のところ私は英利が何を目指していたのかはよくわかっていないのですが、少なくとも「ワイヤードをリアルワールドの上位階層にする=人間を進化させる」ことを目指していたことは間違いありません。ここでは彼がどのようにしてこれらを達成しようとしたのかを簡単に素描します。

 

「人は進化できるんだよ。自分の力で。
そのためには、まず自分の本当の姿を知らなくてはいけない。君は自分を何だと思う?人と人とはもともとつながっていたのさ。僕がしたことはそれを元に戻しただけにすぎない」(12話)

 

 一番最初のところで軽く触れましたが、彼は、人間が肉体に囚われ、唯物論的な言葉によって規定されてしまうことをさして、「人間の進化を留めている」と言います。しかし、彼は人間は進化しなければならないと考えています。詳しいことは次回説明する(予定)ですが、彼は、人間に対する根本的な規定を、書き換え不能な物理的なものから、書き換え可能な情報的なものに置き換えることができるのだと考えます。(あるいは、人間とは本来的には情報的な存在だったと主張します)

(彼のこのような考え方は「きおくにないことはなかったこと」(13話)、という主張にまとめられます)


 それと同時に、彼は、ワイヤード上ではある個人が神になることさえ可能であることに気がつきます。

 

 もちろん、「世界を司る万能の支配者」(8話)や「世界の創造主」(8話)になることは不可能です。しかし、普遍として存在し、影響力を及ぼす事のできる存在であればなることも不可能ではないのではないか? 具体的には

 

  • 普遍として存在 → 第七プロトコルに自分の情報をプログラムする

  • 影響力を及ぼす → 情報をプログラムすることでワイヤード上のあらゆる通信に鑑賞できるようにする。

 

という手段によって、今挙げた神の定義を満たすことができるのではないかと考えたのです。

 

 では、上のような手順でワイヤードの神になれば、彼の目的である人類は進化を実現できるのでしょうか? おそらくそうではないと思います。というのも、彼ができるのはネットワークに遍在してそこを流れる情報を制御することだけです。彼は人の意識に外側から働きかけることはできますが、最上位のlainがその下位意識を制御するような形で内側から働きかけることはできません。

 

 結局、彼がその目的である、「進化」=「物理的存在から情報的な存在への変化」=「集合的無意識の意識への変化」(=「非本来的なあり方から本来的なあり方への変化」)を行うためには、彼が上で言ったような形の神になることだけでは不十分で、最上位のlainの協力が不可欠です。人間の意識を本当に制御することができるのはlainだけなのですから。

 

 しかし、lainがそんな革命を実行してくれる保証などどこにもありません。では、どうすればいいのでしょう? そこで彼は次のよう考えたのだと思います。

 

 最終的には否定される仮象であるにせよ今現在は一応のところ「物理的拘束」は存在しています。ならば、これを逆用して最上位のlainを捉える事ができないだろうか? つまり、最上位のlainにあらかじめ肉体を与え、1人の人間にしておくことで、普段なら決して触れることのできない集合的無意識という存在に接触することができるのではないか? そして、その存在とコミュニケーションを取ることによって、彼の言う「進化」を実行するように仕向けることができるのではないか?

 

 このような過程を経ることで生み出された存在こそ、最上位のlainの肉体的ホログラム、すなわち「岩倉玲音」です。

 


 まとめましょう。英利の計画は以下の様なものです。

 

  •  プロトコルに自分の情報を入れることで彼の言う「神」になる

  • 最上位のlainを岩倉玲音という物理的な入れ物に拘束し、接触できるようにする

  • その上で、集合的無意識を意識に転化させる、すなわち、彼の言う「人間の進化」を実現するよう彼女に強いる

 

 

 

おわりに

 さて、英利の目的に関して素描することができ、物語世界の設定を概観することができたので、本記事はここで一旦終わります。大変なSF的方向からの解釈が一段落したので、次回はいよいよ、本作の要であるレインと玲音の区別と12話の英利と玲音の会話について考えていきたいと思います。

 

 非常に強引な解釈ですが、誰かの理解の一助になれば幸いです。

 

 


以下の記事を特に参考にさせていただきました。ありがとうございます。

 

shinozakichikaru.hatenablog.com

 

「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」 感想

 Twitterに感想を書くことに限界を感じたのでプログを作りました。


 字数、という面もありますし、フォローしていただいている方々がだいたい創作系なので、あんまり感想ばっかというのもどうかと思ったので。

 

 ちょうど、「打ち上げ花火~」を観たのでその感想を書きます。考察ではなく感想なので思ったことを箇条書きにするだけです。あんまりしっかりとした記事を書こうと思うと自分の場合絶対書かないので、リプレイできない映画を最初に選んだのは正解だったかもしれません。(lainの考察とかいつ記事にできるんだろう……)


さて、感想です。

 

  • 実はあまり期待していませんでした。でも結構楽しめました。あんな満足感で映画館を出られたのは久しぶりです。事前期待が低かったし、原作を知っていたので話の流れがわかっていたというのもあると思うのですが、それだけではないような気がします。

 

  • もちろん言いたいことは色々あったのですが、逆に、自分の経験上この作品のように「あそこはないよなあ」みたいに文句をぶつくさ言ってる作品とは長い付き合いになります。文句を言いつつ繰り返し見てて、ある日「自分この作品好きだ」と気づく、みたいな。(Myself;YourselfとかH2Oとか…… 全部世間的には糞アニメですが、自分は好きです)

 

 これ以上感想が思いつかないので、以下、好きなシーンです。当然のごとくネタバレ注意です。

 

  • もしも玉を最初に投げるシーン
    「もしも玉を投げるとifの世界に行く」とはじめに聞いたときは、何でそんな改変をする必要があるんだろうと思いました。その思いは観終わった今でも変わりませんが、最初に典道が玉を投げるまでの流れは自然で、感心したのを覚えています。

 

  • みんなでなずなと典道を追いかけるシーン
     二回目の世界だったと思います。電車に乗っている姿を友だちとなずなの両親に見られて追いかけられるシーンです。このあたりから原作から外れてくるのですが、いい転換点だったと思います。
     コミカルなシーンで、本編に最初から漂っていた悪い意味の緊張感が解けて良かったと思います。(逆に何で最初っからこれくらい軽くしてくれなかったんだろう?)
     あと、これは深読みと言うか妄想なのですが、何となく2回目のループは「死」を連想させるものが多かった気がします(線路に飛び降りたり、2人での逃避行的な要素が強調されていたり、そもそも最後に落っこちてた)。それでもほとんど暗くならなかったのは心臓にやさしくてよかったなあ、と。

 

  • まっ平らな打ち上げ花火
    原作を見たときからいつか映像にならないかなあと思っていました。 

 

  • 最後のキスシーン
     なんかこれで全部許せた気がします。自分がいちばん推したいシーンです。
     誤解してほしくないのですが、自分は実はキスシーンというか映画の恋愛要素自体があまり好きでありません。毎回ボーイミーツガールものを見るたびに、「こいつら結ばれないで終わらないかなあ」と思うのですが(本当です。別に登場人物に嫉妬してるとか不幸を望んでるとかそういうわけでもありません)、当然最後には結ばれるのでいつもその欲求が満たされることはありません。
     もちろん、今作にはキスシーンも恋愛要素もあります。でも、今作はわりと許せた気がしています。よくよく考えると理由は次の2つのような気がします。

    • なんか恋愛っぽくない
       2人の感情ってなんか普通に書かれるような恋愛っぽくないですよね。これは人によってはマイナス点かもしれないのですが、そもそも典道ってなずなのこと本当に好きだったんでしょうか。
       もちろん、最後には好きになってましたけど、あんな経験すればだれでも好きになると思いませんか? そういえば、原作では典道がなずなの写真を星座早見の中に隠していたんですが、アニメではアルバムに改変されていたような。繰り返しの回数も増えていて、彼の消極性を原作よりも強調しているような気がします。もしかしたら製作スタッフが自覚的にやっていたのかもしれません。
       記憶が曖昧なので間違ったことを言っているかもしれませんが、少なくとも、彼が積極的なアプローチをしていないのは間違いないのかと。

    • キスの順序
       二つ目の理由、と書きましたが、一つ目とそう違うわけではありません。
       記憶が正しければ、2人のキスが最初に映し出されたのって平行世界の方だったような気がします。画面にもしも玉の欠片の世界が映し出されて、典道が実際になずなにキスするのはその後だったような。
       とすると、順序が普通と逆なんですよね。典道は空想の世界で「自分となずなが結ばれている姿」を見て、現実(現実じゃないけど)の世界でもなずなの元へと飛び込むわけです。
       こういう転倒が自分は好きです。

 

 そういえば、最初にこの映画の話を聞いて、主人公が中学生に改変されると聞いて随分期待値を下げたような気がします。そのとき、「そこまで設定を変えるんだったら原作と同じ話をやるんじゃなく、原作の筋を原作とは違った状況に置かれた登場人物が自覚的になぞるような話にしてくれないかなあ」なんて考えました。

 この映画は小学生を中学生に変えたり、実写をアニメに変えたり、あるいは時代が変わっていたりしているわけですが、これでそのまま原作をなぞることで原作がどんなふうに「壊れる」のか、そして、作中で原作を「演じていた」キャラクターたちがそのときどんなふうに(原作にはない特質でもって)それに立ち向かうかを描ければ面白くなりそうだなあ、と考えたわけです。

 私がこのアニメを面白いと思った理由はその願いが部分的に叶った(ような解釈を許容してくれた)からかもしれません。

 自分はこういう「物語を演じる物語」みたいが好きです。それに夏が重なればもう言うことはありません。(というかそもそも日本人が想像する「夏」ってそれ自体物語だと思うんですよね。そして、そのイメージ形成に一役買っているのがたとえば原作なわけです)

 

本当に箇条書きで終わりましたが感想は以上です。

興味ある人は見てみて損はないと思います。