萵苣猫雑記

tayamaの雑記

『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』感想

 

本間芽衣子のねがいは何を意味していたのだろう?

 

あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』をみてから随分たつが、この問がながらく気にかかっていた。もちろん、作中で解答は与えられている。めんま本間芽衣子)のねがいは、仁太の母親(塔子)の「仁太が自分が病気になったせいで感情を表にださなくなった。本当はもっと笑ったり怒ったり泣いたりしてほしかった」という言葉をうけたもので、「じんたんを泣かす」というものだった(11話)。ねがいが叶ったのは具体的には8話のAパートの最後のシーンである。ここまでにはあまり誤解の余地はない。

 

しかしずっと気になっていた。このシーンでめんまのねがいは叶ったといえるのだろうか? たしかに泣かすという行為自体は達成されたが、それは塔子が望んだようなものだったのだろうか? そもそも塔子のめんまへの独白は、彼女が死ぬまえに見たかったということであって、ねがいというよりは一種のあきらめという趣がなかっただろうか? これを他人に「任せる」ことなど可能なのだろうか? また、直前の安城鳴子とのやりとりを踏まえるなら、自分の感情を表にだすことは、必ずしも肯定的に評価しきれるものだとはいえないのではないか……

 

いささか近視眼にすぎた。たぶん、本当に気になっていたのはむしろ、なぜ彼女の願いが仁太だけに関するものだったのか、ということなのだろう。「めんまのねがいを叶えること」はこの作品の最終目標である。一方で、この作品のもう一つの主軸が、時を経て疎遠になってしまった超平和バスターズの再始動にあることも明らかだ。ふつうに考えればこのふたつは密接に関係すべきだ。それなのに「じんたんを泣かす」という願いとその8話における解決はむしろこのふたつが独立であることを示す。

 

やりようはいくらでもあった。たとえば、なぜ10話でみんなで心を一つにして花火をあげるというエンドにしなかったのだろう? べつに結論はそう大きく変わらなかったわけではあるし、超平和バスターズのメンバー各々の本心はすでにでそろっていた。1話うしろに倒したところで最終的な結論は、彼女のねがいを、「超平和バスターズはずっとなかよし」というみんなのねがいで上書きするというもので。花火という画になる切り札を失ったためにほとんど力技となった11話のラストは、むしろこの作品の構成の欠陥を露わにした蛇足になってしまったではないか?

 

もうひとつ。なぜ解決がよりによって8話なのだろう。件のシーンは仁太がひとりで彼女のねがいを叶えることを決意した直後であり、全編でもっとも彼の孤独が強調される。それなら、超平和バスターズに伴う諸々はすべて省略して、最初から8話にいけばよかったということにならないだろうか。

 

このように「めんまのねがい」と「超平和バスターズの再結集」は、奇妙なくらいに交わらない。いったいなぜなのだろう。

 

もっと11話のAパートをすなおにみるべきだったのかもしれない。

 

ねがいを叶えてあげたいんじゃなくて、自分のためにめんまを成仏させたかった。(11話)

 

めんまを想う仁太を見ていたくなかったこと、仁太にだけめんまがみえていることがいやだったこと、めんまが消えて仁太と安城が一緒になれば自分がゆきあつといられること、流れていくめんまをみていることしかできなかったこと。

 

これが超平和バスターズのメンバーの懺悔である。興味深いのは、ぽっぽを除けば彼等の懺悔の根本の部分は、本質的にはめんまの事件がおこるまえとかわらない、ということだ(つねに蚊帳の外にいるという意味では彼もかわらない)。彼らはあの日もまたそのようにめんまにたいして消えて欲しいとおもっていた。

 

しかしあの日にはまだ彼女は生きていた。そして彼女はいまも一応はいるのである。だとすれば、めんまだけを無謬の純粋な少女にしておくことは正しいのだろうか? 彼女にもなにかしら懺悔すべき罪があったのではないか。超平和バスターズの面々があの懺悔の場面でさえ彼女のねがいは超平和バスターズに関することであるべきだと考えていたように、自分がねがっているべきねがいとはちがった、本当のねがいがあり、「じんたんを泣かす」ことはその意味で捉えるべきことだったのではないか。そしてそれは、他の面々がそうであったように、おもわず目を背けたくなるようなものだった。

 

以下、ほとんど根拠のない直感だが、私の考えるめんまの本当のねがい、というより、彼女のねがいが持っていた意味を述べたい。

 

それは「じんたんを泣かすこと」、つまり、いずれ死んでしまう母親を前にしても泣かなかった彼が、自分が消えてしまうとなったときには泣いてくれること、だったのではないだろうか。いいかえるなら、母親よりも彼にとって大事な存在になることだったのではないか。*1*2

 

本作をふつうにみるぶんにはめんまはあまりに純粋な少女であり、じぶんとしても意地がわるい解釈だとはおもうのだが、この解釈をとると、うえにあげた自分の疑問点は基本的にすべてなくなる。また、11話の細々とした展開にも説得力を与えるだろう。

 

なぜ8話だったのか? あの場面は直前の安城鳴子の告白と呼応していた。彼女が自分が嫌いになるような告白をしたように、めんまもおなじことをした。あのシーンが全体として超平和バスターズと全く関係がなかった理由については語るまでもない。

 

そしてなぜ10話で終わらせてはいけなかったのか。それは、超平和バスターズの面々は、めんま自身もふくめ、もう一度集まりたいなどと真におもったことはなかったからだ。その意味で、この作品の主軸が交わらない2軸であったことはまったく正しい。全員が超平和バスターズという中心と交わることがないエゴを持っていた。

 

それでも彼らは11話で「超平和バスターズはずっとなかよし」というねがいを叶えるために行為した。そのねがいはめんまに押しつけられたものだったが、彼女自身もそれをねがうことをねがったのではないだろうか。じつは一度も本当に「なかよし」であったことなどなく、その言葉を都合のいい言い訳に使っていた彼らが、本当に「ずっとなかよし」であることを望んだのである。それが最終話で描かれたことであった。

 


あまり実のない妄想に時間をかけすぎたかもしれない。上に描いたことがこの作品の正しい解釈だなどとは全く考えていないが、この作品であまりに純粋に描かれるヒロインにささやかな毒を加えいれてみることは、深みをますひとつのスパイス程度にはなるのではないか。

 

 

 

 

 

*1:本作で何度も繰り返される、めんまの生前最後の基地でのやりとりについて思い出したい。あの場面は、最終的に「仁太のめんまの気持ちを確かめること」と「仁太を泣かせる方法を考えること」のふたつの意味を持つ場面となった。そしてつるこの事前の警告にもかかわらず彼女はそれを避けることをしなかった。

*2:裏を返せば、彼女は塔子に嫉妬していた、ともいえる。ひょっとすると、大原さやか演じる母親のねがいも綺麗なものではなかったのかもしれない。仁太がもっと笑ったり怒ったり泣いたりしてくれること。それは、彼が、自分が死に際して、とりすました冷淡な姿ではなくて、喜んだり怒ったり苦しんだりする姿をみせてくれること、ではないか。でも彼女は結局それを得ることはないと思った。そうして彼女は、それをめんまに「任せ」た。

『魔法少女まどか☆マギカ』感想

ずっと気になっていた『マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝』の一期を見終わった。『まどか☆マギカ』の世界観を踏襲した別のキャラクターの物語ということで、前作についても考えさせられることが多かった。ちょうどマルクスの『共産党宣言』を読んでいたというのもあるのだが、特に、本作での魔法少女システムの描写が興味深かった。この作品で描かれるこのシステムの発展の過程は、マルクスが語る資本主義の起源によく似ている。そして意外なことに、その線での読解を進めるなら、このシステムを真の意味で完成させるのはインキュベーターではなく、円環の理なのである。

 ***

考えてみると、その文明人としての自負とは裏腹に、インキュベーターのエネルギー回収方法は原始的だ。彼らは少女の希望と絶望の変化からエネルギーを取り出すという未知の科学技術(?)を持っているが、その行使の方法に目を向けるなら、これはほとんど狩猟採取か、せいぜい初期の農耕のレベルである。彼らは地球上をあてもなく動き回り、出会った少女の適性の多寡に一喜一憂しながら、見込みのある個体への個別のアプローチをつづける。そうして、無事に魔法少女の契約をかわすことができたら、あとは、彼女が無事に魔女になってくれることを黙って待っているだけなのである。それでは、山林で果実を摘んだり、肥沃な土地に種を蒔いてただ待っていたりするのと何も変わらない。

 

巴マミ美樹さやか佐倉杏子は、この、ある意味ではまだ平和な時代に魔法少女となった。確かに彼女たちの人生は悲劇的であり、インキュベーターに騙され搾取された被害者であることには違いがないが、それはまだ比較的穏やかなそれだ。穏やかだ、というのは、その搾取が、生産の効率化の果てに構築された収奪のシステムによるものではない、という意味である。インキュベーターにとって彼女たちは、実るかどうかわからない種、あるいは、売れるかどうかわからない商品である。そこにはその都度、一回限りの命懸けの跳躍がある。契約は取れるかもしれないし、取れないかもしれない。巴マミは死なないことができただろうし、佐倉杏子の人生は絶望で終わることがなかった。美樹さやかの人生は古典的悲劇のような、ある種必然的な破滅の様相を呈するが、仮にそれが必然的であったにせよ、それは彼女自身の、彼女の願いに固有な悲劇であった。言ってしまえば、彼女たちはまだ、その都度単に騙されただけに過ぎない。

 

状況が変わるのは暁美ほむらからだ。彼女は鹿目まどかを救える自分になることを望んだ。まどかを救うというのは、具体的には〈ワルプルギスの夜〉という魔女から彼女を救うことを意味する。ところで思い出してほしいのだが、魔女とは魔法少女の成れの果ての姿なのだった。おわかりいただけただろうか。暁美ほむらの願いは、魔法少女のシステムによって奪われたものを魔法少女になって取り戻す、という願いに他ならないのである。システムが奪ったものをそのシステムを使って取り戻させること。これが真の意味での搾取だ。文明人たるインキュベーターがそのことに気がつかないのはわけがわからないが、ここから以下のような悪魔的な洞察が得られる。すなわち、魔法少女という存在は他の魔法少女を生み出すのにも使うことができる、という洞察だ。ここが転換点だ。この洞察に比べれば、魔法少女の希望がいつかは絶望に転移してしまう、という意識のレベルの、言うなれば上部構造のレベルの悲劇など、大したものではない。*1

 

作中で描かれるように、魔女は次第にその強さを増していく*2。つまり魔女の被害者は増えていく。そしてその中には、その被害のゆえに魔法少女になろうとする者が現れるはずだ。産業機械の普及によって手工業者がその職を追われ、次第に自らの労働力を時間で売るしかなくなるのと似ている。プロレタリアート(無産階級)の誕生である。そして、ほむらのような、固有の願いを持たないいわばプロレタリア魔法少女は、より簡単に、より確実に、絶望して魔女になるだろう。この過程を図式的に示すのがほむらのループの中での鹿目まどかの願いの変化である。まどかが最初に願ったのは、おそらくはささやかながら彼女自身の願いだったのだろう。しかし、ループを繰り返し、〈ワルプルギスの夜〉の脅威をほむらを介してより深刻なものと認識するにつれ、彼女の願いは変化した。最終的に、彼女は、自らに固有の願いを捨て、魔法少女の救済を願うことになる。もはや、少女が生得的に抱く願いでは、システムが奪った損害を補填するという願いに太刀打ちできなくなるのである。機械の性能が上がるにつれ、生半可な能力では太刀打ちできなくなるのと同じである。次第にこの世界では、魔女に奪われた(る)ものを取り戻すということ以外の願いはその価値を失ってしまうのである。*3

 

キュウべえが強調する「少女の希望は絶望に転換する」という本作のテーゼが、真の意味で「科学的」な法則となるのは、この時点からだ。上に述べた通り、巴マミはまだ死なないことができたし、佐倉杏子は絶望に至らない実らない果実だった。そのようなあり方が可能だったのは、彼女たちが願いを、つまりは絶望の生産手段を所有していたからである。しかし、願いを所有しないプロレタリア魔法少女が増えるにつれて状況は変わる。少女の希望・絶望という、本来は各人に固有で質の異なっていたはずのものは、規格化されて相互に比較可能なものとなる。やがて、少女たちの絶望は、等質で交換可能となり、一つの量として計測可能なものとなる。ここに至って、少女の希望は常に絶望に転換する、という法則が普遍的な妥当性を持つことになるのだ。

 

そしてこの法則が成立するや否や、全てはこの法則によって記述されることとなる。マルクスが分析した通り、意識という上部構造は経済的な下部構造によって形成される。ほむらの、「まどかを救いたい」という願いは、魔法少女の再生産という下部構造が規定した物神崇拝的(フェティッシュ)な愛情に過ぎなかった。暁美ほむらの客観的な記述と彼女の主観的な願いとは、単なる矛盾だった*4。今や矛盾は止揚される。主観と客観が一致するような世界観が生み出されるのである。今となって考えると、巴マミ魔法少女にしたあの事故は、魔女のせいだったのではないだろうか。佐倉杏子の父親の説教を誰も聞かなかったのも魔女のせいだったのではないだろうか。絶望の原因が全て魔女になった世界から過去を振り返るとき、過去の魔女によらなかった絶望までも魔女によるものと解釈されるのである。そのような、主観と客観の矛盾が統合された世界観が成立するようになるのだ。言い換えるなら、魔女というある固有で特殊な現象が、絶望という普遍的な現象そのものになってしまうのである。魔法少女とは、過去でも未来でも、そういうものでしかありえなくなる。ここにおいて、このシステムには外部がなくなる。ここに至って、魔法少女というシステムは完成するのである。*5

 

円環の理とは、実はこの弁証法的統一のことだったのではないだろうか。全ての魔法少女を救うということは、自分が破壊した全ての魔法少女の願いの上に立って、それらが同じだった、と宣言することに過ぎないのではないか。少なくとも円環の理が、魔法少女を救う都度、まどかがそれを願わざるをえなかったその起源を、すなわち絶対的な絶望としての〈ワルプルギスの夜*6をも反復させてしまうことには、間違いがない。ただ単に強いだけの魔女だったはずの〈ワルプルギスの夜〉は今や、最強ではなく無敵の、絶対的な絶望として君臨することとなった。スーパーセルに被災しただけの見滝原は、世界の終わりの風景になってしまった。しかしどうすることもできない。環は閉じてしまった。そして円環が満ちてしまった今となっては、もう、この世界に外側はないのである。

 ***

以上、駆け足で見ていった。が、自分としては、円環の理をある種の搾取のシステムの成立とみなすこの結論をどう評価してよいかはわからない。


公式な世界史の教えるところでは、マルクス主義とは敗北した思想である。資本主義が勝利した、あるいは、少なくともそれが一番マシなシステムであることが判明した現在においては、この体系の成立とは歴史的達成に数えられるべき事象なのではないか、という考え方があるだろう。要するに、21世紀にもなってマルクスの言うことを額面通りに取るべきではない、ということだ。逆に、そもそも円環の理自体は『叛逆』において否定されているのだから、何かしらの瑕疵を含んだ解決だった、と言う考え方もあるだろう。

 

この大問題に自分が結論を出せるとは当然思えないが、自分の最近の関心がマルクスにあることもあり、彼の思想に沿った形で2つほど、とっかかりを述べて本稿を締めくくることとする。

 

一つ目は、マルクスの処方箋をこの世界で実行したとしたらどうなるかを考えてみることだ。幸い、おそらくはそれを独力で考える必要はない。マルクスが主張するのは、階級対立に対する意識の強化とプロレタリアートの団結であるが、これはまさに『マギアレコード』1期の終盤で里見灯花が行ったことだった。要するに、マギウスの思想はかなりこの処方箋に近い方向に進むのではないか、ということである。

 

二つ目は、『共産党宣言』の終盤で出てくる、ドイツにおけるブルジョワ革命はプロレタリア革命の序曲となる、という主張である。つまり、上で私が描いたある種のシステムの完結は、単なる資本主義システムの成立にとどまらず、同時にプロレタリア革命まで成し遂げたのではないか、ということである。

 

いずれにしても長く書きすぎてしまった。アニメは何かある思想を表現したり読み取ったりするための道具に用いるべきではなく、もっと純粋に楽しむべきものだ、という考えに、無論私は全面的に同意している。

*1:マルクスによる資本の定式とは「G-W-G’」だった。Gelt(貨幣)とWare(商品)を、Girl(少女)と Witch(魔女)に読み替えればそのまま成立するのが面白い。

*2:本作の描写から、魔女が次第にその強さを増すということに違和感はない。ただし、なぜ魔女がその強さを増すのか、については、自分はあまりわかっていない。資本主義の分析においては、剰余価値と労働価値説の議論に相当すると思うのだが、自分はこちらの方もあまり理解できておらず、うまい説明が思いつかない。

*3:暁美ほむらについてはもう少し指摘すべき点があるので、ここに述べておく。
まず、暁美ほむら魔法少女としての性質の異質さは強調してよい。彼女はマミのマスケット銃、さやかのサーベル、まどかの弓に対応するような、魔法少女としての固有の攻撃手段を持っていない。彼女が使うのはどこかから取ってきた大量生産の近代的な兵器である。これはある種彼女固有の願いのなさを象徴しているように思える。また、彼女の時間を操作してループを繰り返す、という能力も、要するにさして能力の突出していない個でも数を束ねれば強大な力を生み出せる、というある種の数の暴力を意味するに過ぎない。そう考えると、ワルプルギスの夜暁美ほむらの対立は、最強の個と凡庸な群体の対立であると見做せるかもしれない。(おそらくは、ループを繰り返すたびにまどかが強くなっていった、という本作の不可解な側面も、この観点からはある程度納得いく説明をつけることが可能だろう)

*4:本当にそうなのだろうか。と読み返して思った。少女たちの希望/絶望という系列と、客観的な再生産の仕組みとは、全く別種のものであって、それがたまたま何かの偶然で出会ってしまっただけなのではないだろうか。この場では詳細を議論することはできないが、要するに、資本主義とは必然ではなく偶然によって成立したものなのではないだろうか。

*5:ここで、本作で一番最初に何が描かれたのか思い出してみるのは面白い。第一話の冒頭は、まどかが彼女の願いを一番最初に捨てた場面、すなわち、魔法少女のシステムに外部が無くなったまさにその瞬間なのだ。その限りでは、マミもさやかも杏子も、この時間軸では魔法少女として正しく絶望して死んでいったのだろう。

*6:上の注で述べた説をとるなら、ワルプルギスの夜というよりは暁美ほむらとすべきだろう。

『25歳の女子高生』感想

放送時、曰く言い難い魅力を感じて視聴をつづけていた。最終回のある台詞がきっかけとなり、この魅力を言語化してみたいと思うようになった。頭の整理のためにも記事にまとめようと思ったのだが、原作が連載中のマイナーな作品でもあり、検索結果や作品評価を汚染しかねないと考え、当時は控えていた。
時の流れは早いもので、放送からは4年以上も経った。残念ながら原作の単行本も長らく刊行されていない。もう悪目立ちすることもないだろうし、誰か自分と似た感性を持った人の目に留まらないとも限らない。そこでここに考えをまとめることにする。


最終回での興味深い台詞とは蟹江亮人の「今の方が好きだ」という告白である。私はこの台詞を次のように理解している。蟹江はおそらく「昔の自分(蟹江)よりも今の自分の方がお前のことが好きだ」と言おうとした。しかし、名鳥花は「昔の自分(名鳥)よりも今の自分の方が好きだ」と蟹江に言われたと思った。つまり、作中最も重要なこの告白は、誤解して受け取られた。この解釈からはじめ、本作を読み解いていきたい。問題となっているのは、それぞれのキャラクターの、過去と現在との差異だ。

蟹江は変わった。それは自他ともに認めることだろう。髪の色も生活態度も変わり、最初、名鳥は彼が彼だとわからなかった。一応は立派な教師になった。彼はそんな自分の変化に寂しさを覚えているようにさえ見える。今の彼と過去の彼には明確で実体的な差異がある。

では、名鳥はどうだろう。蟹江が繰り返し言う通り、彼女は変わらなかった。過去の彼女と現在の彼女の間には、実質的にはいかなる差異もなかった。だから、本当は正体を見抜かれることをあんなに恐れる必要などなかった。誰も彼女のことに気がつかなかったのだから。皮肉なことに、蟹江が唯一彼女の正体を見抜けたのは、彼女が過去の彼女とあまりに変わらなかったからなのだ(逆に、彼女は彼のことがわからなかったことを思い出したい)。蟹江は最終話においてさえ、彼女への好意を過去の回想として語る。蟹江は今の彼女と過去の彼女を区別していない。その意味で、「過去の名鳥花よりも今の名鳥花が好きだ」という文章は単にナンセンスである。今の彼女と過去の彼女には空虚な差異しかない。

それなのに、彼女だけは、彼女が変わらなかったということに気がつこうとしない。彼女は過去と現在の自分があまりに同じだということを否認し続ける。そして彼女はそれを埋める実体的な差異を求める。従妹の替え玉を引き受けるという馬鹿げた提案を呑んだのは、誰かに正体を見抜いて欲しかったからだ。というのも、もしも彼女に正体なるものがあり、それが暴かれることができるなら、彼女はようやく望む差異を手に入れることができるからだ。しかし、正体などない者の正体など暴くことができない。蟹江だけが彼女を見抜くことができたのは、彼は、嘘をついたという嘘だけは見抜くことができたからだ。あるいは、何も見抜けなかったからだ。一方で、彼女が見抜いて欲しかったのは、嘘をついた(=自分には秘密がある)ということだけだった。彼女は、自分が嘘をついたことにできる何かの印が欲しかった。

ひょっとすると、蟹江は彼女が滑稽な演技で満たそうとした空っぽの嘘に彼なりの方法で向き合おうとしたのかもしれない。16歳が25歳になることが、子供が大人になると言うことであれば、子供には教えられないことをしてみることは1つの回答になりえる。はたして、その行為は彼女の求める差異を生み出すことができたのか。私にはそうは思えない。本作の濡れ場はまずは失笑を起こす滑稽なものだが、それが済むとあとはひたすらに空虚に見える。空虚に見える、と言うのは、肉体関係を持ったところで彼らの関係性は何も変わっていないように見える、ということだ。私は名鳥花が怖い。彼女は行き当たりばったりに状況に流され、何も拒まず、時には恐ろしい目に遭ってもそれをやめない。彼女の行動の連鎖にかろうじてつけられる道筋は、正体がばれてはいけないという強迫観念だけである。しかし、本当にそう思っているのであれば、こんなことを始めなければよいわけで、もし彼女の行為にそれでも整合する動機を見出そうとするなら、つまり無意識にその逆を望んでいる、と解釈することしかできない。彼女のこんな強迫観念をどうやって除くことができるだろう。こんな彼女を一体誰が救えるのだろうか。いやそもそも、彼女は救われるべき苦境にいるのだろうか。

それが、できるのである。驚くべきことに彼女は救われてしまったのだ。それが、冒頭に書いた告白のシーンで起こったことである。蟹江の、今の蟹江の方が名鳥のことをより好いている、という告白を、名鳥は、今の名鳥の方が昔の名鳥よりも蟹江に好かれている、ということだと理解した。

蟹江がその告白で「今」という言葉にかけた蟹江自身の時間を、一つの誤解を梃子に、彼女は自分の時間に差し替えた。彼女は、蟹江の過去と今という実体的な差異を、彼女の過去と今の差異に転嫁したのである。自分が演じた過去と現在の空虚な差異を、この告白の迫真性で備給した。しかしそれは不可解だ。蟹江の過去と今、そして名鳥の過去と今。それらは「差異」という言葉で呼ばれるということを除けば全く異質なものであるはずなのに、それが「差異」であるというだけで、まるで貨幣か何かのように、他の差異を媒介することができるとでもいうのだろうか。いやそもそも、現在の蟹江の過去との差が浮き彫りになったのは、それ自体、何も変わらなかった名鳥から彼の差異が逆照射されたからに他ならない。不変のはずの彼女が励起した他者の差異が逆に彼女自身に取り込まれ、彼女の分裂を媒介するなど、そんなことがあり得るのだろうか。

しかし、私はこの告白のシーンの経過に何の違和感も覚えなかった。私は、名鳥が泣いたことを(つまり、望むものを手に入れたことに)素直に納得した。こういうことは起こり得るのだろうと思った。だとすれば、私はこのようなことが起こりうることを信じなければならない。

この物語はこれからどうなるのだろう。ありふれたハッピーエンドを迎えることには疑いがない。名鳥花は蟹江亮人と結ばれることでようやく自己を肯定することができる。恋人、妻、つまりは誰かに愛されるようになったという印を手に入れることができる。しかし、「愛されるような自分になった」と自己を肯定することは、愛されなかったことから何かしらの距離を作り出すことに他ならない。その、自己にとって最も根源的な差異を、彼女は蟹江が費やした時間を移しとることで埋めた。彼も彼女もそのことを知らないし、知ってもいけない。彼女が「変わった」ことすら認識していない彼に至っては、自分から何かが盗み取られてしまったことすら理解していない。彼らは何一つ分かり合っていないのに、分かり合っていないことで幸福になる。

ひょっとすると、こんな誤解はしばしば起こっているのかもしれない。こんな奇跡は日常でありふれているのかもしれない。誰も、それを行った当の本人たちにすら気づかれないままに、今もどこかで起こりつづけているのかもしれない。

 

 

 

 

起承転結とClariS「コネクト」

〇概要

本稿では、私が(勝手に)起承転結サビとよんでいるアニメソングの概念について説明し、その希少性について述べ、ほとんど完璧な起承転結サビである「コネクト」(ClariS 作詞・作曲:渡辺翔)の1番のサビについて上記の観点から解釈します。


〇アニメソングのサビの構成について


たいていのアニメソングのサビは、サビの冒頭部分を15秒ほど後にもう一度繰り返します。その理由はよくわかりませんが、この構成はわたしたちの無意識にすっかりしみ込んでおり、「アル晴レタ日ノ事」というメロディが、もう一度繰り返されるとどこか安心するものです。

とはいえ、全く同じメロディを2度繰り返したのでは曲が終わりません。自然、繰り返される冒頭部分に続くメロディは、1回目と2回目で違うものとなります。
その後、いわゆるサビ後としてさらに部分が追加される曲もありますが、ひとまずこの記事では2回目の繰り返しがひと段落するところまでを「サビ」と呼び、独立した考察の対象とします。

さて、今話題にしているアニメソングのサビは、以上の考察から、繰り返されるメロディと、その2つに挟まれた部分、2週目の繰り返し以後の部分の4か所に分割されることになります。「ハレ晴レユカイ」の例でいうと、

 

アル晴レタ日ノ事/魔法以上のユカイが/
限りなく降りそそぐ/不可能じゃないわ/
明日また会うとき/笑いながらハミング/
嬉しさを集めよう/カンタンなんだよ こ・ん・な・の/

 ハレ晴れユカイ」(作詞:畑亜貴*1

 

の改行で区切った四部分に分かれます。もちろんこの後も「追いかけてね…」と曲は続きますが、本記事では上の4行のみを対象とし、基本的にはそれで終わる曲のことを念頭に置いています。

 

メロディすなわち曲の純粋に音楽的な部分がある規則に沿って分割されるとなれば、歌詞すなわち言語的・意味的な領域にもそれに引っ張られたなにがしかの規則、法則性、セオリーがあると考えるのは自然です。

それを探ってみましょう。

ひとまず、3点ほど並べてみます。上記の規則通りに4部分(以下この1部分を「文」とよびます)に分け、それらの意味的な関係性に注目してみましょう。

 

Looking! The blitz loop/This planet to search way/Only my railgun can shoot it/今すぐ/
身体中を 光の速さで/駆け巡った 確かな予感/
掴め! 望むものなら残さず/輝ける自分らしさで/
信じてるよ あの日の誓いを/この瞳に光る涙/それさえも強さになるから/

「only my railgunonly my railgun」(作詞 :八木沼悟志 yuki-ka)*2

 

遥か先で 君へ 狙いを定めた恐怖を
どれだけ僕ははらい切れるんだろう?/
半信半疑で 世間体 気にしてばっかのイエスタデイ/
ポケットの中で怯えたこの手はまだ忘れられないまま/

「イエスタデイ」(作詞:藤原聡)*3

 

赤く染まった空から/溢れ出すシャワーに打たれて/
流れ出す 浮かび上がる/一番弱い自分の影/
青く滲んだ思い出隠せないのは/
もう一度同じ日々を/求めているから/

空の青さを知る人よ(作詞:あいみょん*4


1つめのonly my railgunはほとんど無秩序と言っていい歌詞で、分割された4文に連関を見て取るのは困難です。これは1番の歌詞ですが、たとえばどこかの文を2番の歌詞と入れ替えても大きな違和感はありません。全体として『とある科学の超電磁砲』を連想させるワードが並んでおり、その選択自体は見事なものの、それらは単なる並列にとどまっています。

一方、あとの2つは(どちらも今年度公開されたアニメ映画の主題歌です)、いずれも、1行目と2行目、3行目と4行目が意味的にセットになっています(「イエスタデイ」の3行目4行目は若干微妙ですが…)。「only my railgun」のように、部分的に2番と入れ替えるなどした場合、たとえこの曲を知らない人でも大きな違和感を覚えるでしょう。しかし、2行ごとの組に関しては入れ替えることも不可能ではありません。もちろん、今の組み合わせがベストであったり、青と赤で対句をなしていたり、微妙に話は続いていたりと、違和感がないわけではありませんが、組み換え自体は不可能ではありません。

さて、以上をまとめると、

  • only my railgun」は 1-1-1-1 と最小単位の1行を4つ並列することでサビを形成している
  • 「イエスタデイ」「空の青さを知る人よ」は2-2と2行で構成される、(あえて言えば)2連によってサビを形成している。

となります。つまりは、前者が1文を最小単位としてサビの歌詞を構成している一方、後者は2文を最小単位として歌詞を構成しています。

さて、このようにまとめると、当然、「4行を最小単位とする1連から成る4のタイプのサビはありえるのか?」という疑問が湧いて来ます。

 

この、「4行からなる1連で形成されるサビ」こそ、まさに私が「起承転結サビ」と呼んでいるものになります。


〇「結のリズム」=「並列」と「起結のリズム」=「問-答」


ここまでストレートに話が進みましたが、以上の概念を実際に適用しようとすると、遠からず様々な困難(最小単位って何? 意味的なつながりって具体的にはどういうこと?)に突き当たり、分析に行き詰るので、もう少し整理し、ある程度抽象化したうえで起承転結アニメソングの採りうる形を絞りましょう。その際、多少アレンジするだけで絶大な効果を発揮するのが、その名にある「起承転結」という概念なのですが、4に行く前にまず1と2をもう少し見ます。

only my railgunのような形を「結のリズム」と仮に名づけます。これは先ほども言った通り単なる並列で、そこまで難しくありません。アニメソングのサビは4つに分かれるといいましたが、この「結」のリズムは3(結結結)にでも5(結結結結結)にでも適用可能です。

もう少し見る必要があるのは2のリズム、「起結のリズム」です。4は2で割れるので、その区別をするためにも重要です。さて、「起結」のリズム、すなわち2を最小単位として構成されるリズムは、音楽に限らず様々な領域で普遍的に適用可能な概念化と思います。緊張と開放、という説明もありえますが、私が思うに、それらの最も理解しやすい例は、「問」(問題提起)と「答」(解答)です。問はれることで聞き手の心には疑問が起こり、それが解決されるまで緊張は解けません。

先ほど挙げた「イエスタデイ」の1-2行目と「空の青さを知る人よ」の1-2行目は文章の途中で文を分けることで1行目→2行目の間に緊張感を出しています。そして、「空の青さを知る人よ」の3→4行目は、まさに「青く滲んだ思い出」を「隠せない」理由を暗黙に問うています。


〇「起承転結のリズム」


順番から行くと、次は3を最小単位とするリズムを考えたくなりますが、今回分析対象としているアニメソングのサビには適用できないため割愛します。*5
いよいよ4です。2を基礎づけるイメージが問と答だとすれば、4を基礎づけるものは何でしょう?


すべてとは言いませんが、その最も主要な例は「起承転結」だと私は思います。

 

といっても、「起承転結」という概念は非常に曖昧で、そのままではほとんど意味を伝えることができません。およそ日常生活でこの言葉が反証可能なものとして語られるのを私はめったにきいたことがありません。(「あの漫画は起承転結がなってない」という批評ほどあてにならず、反証可能性のない例もありません。この概念の多義性はGoogle画像検索に入れて出てくるものを見るとよくわかります)
というわけで、起承転結とされるよさげな例をWikipediaから引いて、再定義しましょう。その過程でここで語る「起承転結」が実際に流通されている意味とは異なったオレオレ用語になってしまう恐れもありますが、そんなことを気に留めるつもりはありません。どうせ使えないものなのだから、自由に組み換え、使える部分だけ使えばいいのです。

起承転結 - Wikipedia

この説明によれば、元々は漢詩の作詩法のようですが、そのあとの頼山陽が語ったとされる例が最もわかりやすいので、それをもとに考えます。

 

起 大阪本町 糸屋の娘
承 姉は十六 妹が十四
転 諸国大名は 弓矢で殺す
結 糸屋の娘は 目で殺す

 

「起承転結」はともかく、誰でも一読して、この文章の面白さというか意外性、リズムは感じ取れると思います。

では、この文章のどこが面白いのか考えてみましょう。

面白いのは3文目です。この文は前の文の流れと全く異なっています。前の2文では糸屋の娘の話をしていましたが、ここでいきなり「諸国大名」が出てきます。確かに面白い趣向ではありますが、このままいくと意味のまとまりが崩れ、ただの見掛け倒しです。

そんな危機からこの文章を救っているのが4文目です。4文目を読んではじめて、3文目の「?」な「諸国大名」が糸屋の娘を描写するために引いてこられた例であることがわかり、この文書が糸屋の娘を描くという統一的な志向に貫かれていることが明らかになります。

3,4文目で、この文章の魅力はわかりました。つまり、「転」でこれまでの流れを裏切り、しかしその逸れた流れを「結」で元の流れに回収することで、単に描写を連ねることだけでは得られない意味の広がりを得ているのです。そして、文意が「結」で裏切られるためには「これまでの流れ」が必要になります。「流れ」をつくるための最も単純な手段は同じ内容を二度連ねることです。こうして「起」「承」が要請されます。

このように4文で作られる文は、その性質上4つ集めて初めて文意が明らかになり、分割することはできません。真ん中で区切った場合、前2つはまだ結結のリズムとして成立するものの、転と結はバラバラになってしまいます。


以上をまとめ、この記事で使う「起承転結」の意味を明確にします。

 

  • 起承転結は4つの文章からなる1つの意味のまとまりで、それ以上の分割すると意味的なまとまりがなくなる
  • 起-承と似たものを並べて連続させたリズムと関係ないものを転でぶつけ、結でそれらが実はひとつながりのものであったことを示す


特に、今後よく出てくる起結起結と区別するポイントとしては、

  • 1-2行目、3-4行目をべつのもの(2番の歌詞など)で置き換えたとき、意味が明らかに破綻する
  • とくに3→4行目の移行がそれ単体では理解できない。(あくまで1→2行目の延長として4行目があるため)


(2番目の話があるので、うまく行かなかった起承転結は起結起結というより起結起起と認識されることが多いです)

 

では、以上の例をアニメソングに応用してみましょう。


〇アニメソングの中の起承転結


まずは小ぶりな例(それでいて完成度は非常に高い)を挙げます。

 

四季折々
色とりどり/
のんびりな
Everyday/

おーぷん☆きゃんばす」(作詞:ZAQ*6

 

1番サビの冒頭部分なので、今までの前提からは少し外れますが、前節の議論をふまえれば、これが起承転結だと見破るのは容易かと思います。

復習をかねて説明します。

まずはこれが不可分な1まとまりであり、4つに分割される(この論点はアニメソングのサビ全体を対象にする場合は不必要です)ことですが、これは執拗な「り」の押韻と、単純に文章(正確には名詞句)がそれらの部分では完結しないことによります。

さて、1行目と2行目は意味的(いずれも「多種多様」という意味の広がりを持つ)にも音声的にも(××ぉりぉり)音楽的にも(メロディ)近く、起承(似た意味の繰り返しで連続をつくる)と解釈して問題ありません。
転には何かしらの変化が必要となります。まずは、音楽的な変化、すなわちメロディの変化です。3行目は1-2行目と明らかに曲調が変わります。また、メロディほど明確ではありませんが、意味的な変化もあります。「のんびり」という語には「多種多様」という意味の広がりがないため意味的にも切れるのです。一方で、先ほどほど完全ではないものの、「り」という文末の韻は維持され、修飾される名詞が登場しないことにより、起承との連結は維持され、まだ次があることが暗示されます。
最後、結となる「Everyday」で以上の3行が、「毎日」という語を修飾する3つの言葉であったことが示され、もちろんそれは意味的におかしなものではないながら、2度繰り返された「多種多様」、あるいは「変化」と「のんびり」によって意味の広がりがうまれ、大きな魅力を成す一節となっています。

 

〇起承転結サビの希少性

 

私は今までサビの話をしていたはずなのですが、なぜ「おーぷん☆きゃんばす」という、その前提からは外れる変則的な例を持ち出したのか、疑問に思う方もいるかと思います。

 

その理由は非常に簡単です。実は、歌詞が起承転結になっているサビは非常に珍しいのです。

 

私はそこまで音楽を聴くほうではなく、詳しい方からすれば異論の余地はあるかもしれませんが、この概念を思いついたとき、当時自分の参照できた数百(少ない)の曲を聴き直したのですが、該当する曲はほぼ皆無でした。それ以来も折に触れて意識してみはするものの、ほぼ見つかりません。

 

以下、私がかろうじて見つけることができた、しかし不完全な例を紹介します。

 

雨上がり歩く並木道/
サクライロノキセツの中で/
階段上ってく/
愛のゴールを/信じてゆく/

「サクライロノキセツ」(作詞:tororo*7

 

まず、上の1,2行目として取り出した箇所は、さっきまでの話では本来3,4行目とすべき箇所であり、その時点でわたしたちが探しているものとは大きく異なります。
この曲は、3,4行目とサビ以後の2行でかろうじて起承転結を成します。しかし、それもどちらかというと音楽的な意味での「転」(「階段」のところの曲調の変化)が前面に出ており、歌詞単体で見た場合は微妙です。

(のっけからコメントに困る例で申し訳ないのですが、この程度のものでさえ、非常に貴重です。
あたりまえですが、起承転結サビの有無と曲の良しあしに直接関係はありませんので、べつにこの曲を非難しているわけではありません)

次の例を見てみましょう。

 

ねぇ、悲しみは そう、悲しみは/同じ向きじゃなくて/
ボクらしく そう、キミらしく/ただ夜空を見つめる/
鮮やかに萌ゆ Ah-- まばゆいプライムが/
今、微笑み返した あの日と違う色で…/

「キミと夜空と坂道と」(作詞:志倉千代丸*8

 

こちらも聴いてみればわかるのですが、言葉というよりは音楽的な意味での起承転結のほうが前面に出ています。通しで聴くとわかるように、アニメソングの通常のつくりを踏襲しつつもその比率がかなり独特であり(Aメロが異様に短く、Bが長い)同様のことがサビで起こっているものと推測されます。

もちろん、歌詞自体にも「転」があり、「ボク」と「キミ」の話が急に「プライム」に転換する様は見事ですが、4行目の「結」での回収は完全なものとは言えません。

以上2例で分かる通り、単なる歌詞の起承転結よりも、音楽の側面での起承転結のほうがよく見られるのかもしれません。しかし、(私にとっては)残念なことに、その上にのる詞が同様の構造を持つことはありません。他にも、『ホワイトアルバム』のオープニングテーマである「深愛」も同様の例として挙げられますが、略します。

 

数百の曲をここで取り上げて分析するわけにもいかないので、この程度としますが、
試しにみなさんのきける範囲の曲を調べてみると、該当するものはほぼないことに気が付くかと思います。


ClariS コネクト


では、完全な「起承転結サビ」とは、観念的な空想に過ぎないのでしょうか?

必ずしもそうではないようです。私の知る唯一の例外を挙げ、この稿を締めくくろうと思います。

 

目覚めた心は/走り出した未来を描くため/
難しい道で立ち止まっても/空は
きれいな青さで/いつも待っててくれる/だから怖くない/
もう何があっても挫けない/

「コネクト」(作詞:渡辺翔*9

 

これがほぼ完全な起承転結を成すことはもうご理解できるでしょう。
1行目で「走り出した」心は2行目で自然に「立ち止ま」ります。ここまでで起-承をなします。

「転」はここでいきなり、全く無関係な「空」を持ち出すことで現われます。この曲のメロディ自体は先ほどの「キミと夜空と坂道と」のような起承転結がたではなく、強いて言えば起結起結に近いものであり、上に乗る詞も放っておけばそちらと解釈されてしまいますが、その大きな断絶は「空は」という言葉をぶつけることで乗り越えられます。

そして、若干理屈に謎はのこるものの、「空」が持ち出された理由を「だから怖くない」と回収し、「走り出し」「立ち止まっ」た心に主体がもどり、それが「挫けない」ことによってこの連が締めくくられます。

この4行を半分に分けてしまえば後半3,4行目の意味は不完全にしか成立せず、後ろの歌詞と入れ替えるなど不可能です。


〇終わりに


以上、「起承転結サビ」なる概念と、それを最高の形で具現した「コネクト」を紹介しました。この曲のどこまでも伸びて行くようなサビはこの構造からうまく説明することができなくもない気がしており、多少は有益な分析ができたのではないかと自負しています。

とはいえ、この四葉のクローバーのような、理解は簡単でも見つけるのが難しい「起承転結サビ」という概念の可能性はまだこれのみ出尽くされるわけではありません。たとえば、起承転結のメロディに起承転結のサビがのった例を私は知りませんし、この概念を拡張し、曲の別の構造にあてはめたり、べつの基数(たとえば3)で考察したりと、課題は山積みです。

よくわからない記事ですが、誰かの何かの役に立てば幸いです。

(もし、ほかの例をご存知だったら教えてください)

*1:ハレ晴れユカイ」 作詞:畑亜貴、作曲:田代智一、編曲:安藤高弘、テレビアニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』エンディングテーマ

*2:「only my railgunonly my railgun」 作詞・作曲 :八木沼悟志 yuki-ka(作詞)、歌:fripSide、テレビアニメ『とある科学の超電磁砲』オープニングテーマ

*3:「イエスタデイ」 作詞・作曲:藤原聡、編曲:蔦谷好位置、歌:Official髭男dism、アニメ映画『Hello World』主題歌

*4:「空の青さを知る人よ」作詞・作曲:あいみょん、編曲:近藤隆史、立崎優介、田中ユウスケ、岡村美央(ストリングスアレンジ)、アニメ映画『空の青さを知る人よ』主題歌

*5:興味深いのは、ここで挙げたリズムと拍子とが明確に相関するわけではない点です。てっきり3を最小単位とするリズムやサビ概念は3拍子の曲に現れるかと考えていたのですが、どうもそうではないようです。たとえば、私が3拍子のアニメソングと聞いて思い浮かぶのは、『失われた未来を求めて』のオープニングテーマである「Le jour」ですが、このサビは既述した方法で4分割でき、起結起結のリズムとなります。
この理由は様々に考えられますが、一つには3のサビのためには、まず音楽上3を基数とする構成をとらざるを得ないということが考えられます。そういう意味では、起承転結サビよりも希少な存在なのかもしれません。
(といっても、絶句や律詩だけでも無限にある2や4と違って、3によって構成された文学史上最も偉大な詩といえばほぼ一択なので、対象が明確なだけいざ着手すれば分析自体は楽かもしれません)

*6:おーぷん☆きゃんばす」 作曲:ZAQ、編曲:A-bee、歌:ゆの(CV.阿澄佳奈)、宮子(CV.水橋かおり)、ヒロ(CV.後藤邑子)、沙英(CV.新谷良子)、乃莉(CV.原田ひとみ)、なずな(CV.小見川千明)、テレビアニメ『ひだまりスケッチ×ハニカム』オープニングテーマ

*7:「サクライロノキセツ」 作詞・作曲:tororo、編曲:Angel Note、歌:yozuca*、テレビアニメ『D.C.S.S.ダ・カーポ セカンドシーズン~』オープニングテーマ

*8:「キミと夜空と坂道と」 作詞・作曲:志倉千代丸、編曲:編曲:磯江俊道、歌:いとうかなこ、テレビアニメ『Myself ; Yourself』エンディングテーマ

*9:「コネクト」 作詞・作曲:渡辺翔、編曲:湯浅篤、歌:ClariS、テレビアニメ『魔法少女まどか☆マギカ』オープニングテーマ

『理のスケッチ』 感想?

 


『理のスケッチ』 (https://www.freem.ne.jp/win/game/14883
製作: 捨て鳩さん(http://ngrmds2016.exblog.jp/
※ただし現在のバージョンは1.1

 

 

 ある日、あなたの前にあなたの理想そのものの物語が現れたとして、あなたはその物語に対して、考察でも感想でも解釈でも、何か価値あることを言うことができるでしょうか?

 

 


 私が『理のスケッチ』という作品をプレイしたのは今年の8月で、つまりは4ヶ月も前のことです。4ヶ月も前にプレイしたゲームの感想記事を今になって書いていることに理由がないわけではありません。

 クリスマスに合わせたかった、というのは勿論言い訳です。簡単に言えば書けなかったからです。その理由を考えると、一番最初に書いた通り、この物語が私の理想の物語そのものだったです。

 理想そのもの、というのは少し話を盛っていて、勿論本作にも欠点はあります。それどころか、客観的に見て本作が優れた作品なのかと聞かれても私は素直に首肯することはできません。しかし、この作品が私にとってその方向で出会うことのできた唯一のものだというのは確かです。そもそも立っている土俵が違うだけに、そもそもこの作品を他作品と比較する気がおきないのです。それだけに、この作品が自分に与えたのは感動というよりむしろ当惑で、非常に失礼なたとえかもしれませんが、読んでいる間はまるで並行世界の自分が書いたものを読んでる気分でした。(勿論私の技術は及ぶべきもありません)その意味では、私が本作に対して抱いた感想は「他人事とは思えない」です。私を魅せたのは話の大枠というよりは細かい描写の一つ一つであって、だからまとまった感想が書きにくいものでした。

 じゃあ感想なんて書かなければいいというのは全くその通りです。実際、最近話題にもなりましたが、あまり人に知られていない作品の感想を書くことはかなりリスキーな行動です(個人の意見がその作品の評価を決定づけてしまいかねないという意味で)。が、そういえば8月ごろに感想をいつか書くと言ってしまった気がしますし、そもそもその言葉を言わせるだけの熱量が自分の中に湧き上がっていたということもあって、何かしらアウトプットしたいという気持ちがありました。

 というわけで感想を書こうと思っていたのですが、上のような事情があるため、正直何を言って良いのかわかりません。文章というのは何かしらの共感を少なくとも要求するものですが、私がこの作品に対して感じたことが客観的に多くの人に対して成り立つことだとは思えないのです。

 とはいえ、「自分が感じた特別な感情というものが特別であることなどありえない」、「他の人と共有不可能な感情を抱くなんてほとんどありえない」というのは、ネット全盛の我々の世代には自明のことで、この作品に対してじわじわ増えてきているレビューからしても、このゲームをプレイする多くの人間が私と似たようなことを感じるというのは大いに有り得ることです。あるいは、1人の人間にこんな記事を書かせるようなゲームとはどんなものだろうと興味を持ってくれる方がいないとも限りません。

 こういう事情で、感想記事を書くことにしました。結局まとまったものにはできなかったので、漫然と好きなシーンを述べるだけですが、どうかご容赦ください。もし何か記事に不都合があれば消すので気軽に相談してください。

 


細々とした描写


  出してくるアイテムがいちいち私の好みどストライクです。
 「屋上」、「少年少女」、「哲学」、「文学」、「隠された日記」、「告白」……この程度なら別にどこにでもありますが、本作は更にその先を行きます。
 「盗みの詐称」に関する罪悪感。およそ人間とは思えないような悪魔的な登場人物、「煙草」、「演技」……この辺になってくると無二な気がします。
 挙げればきりがないのですが、他にも冒頭の場面などがそうです。正直に言えば、この場面はわかりにくいです。たとえば、「野崎英理は困っていた。大事にしていた本をなくしてしまったからだ。彼女はその2週間前……」とかすればすっきりとして、より多くの読者を獲得できるのかもしれません。が、この作品はそうしません。この作品はまず英理の様子を客観的かつ公平に描写してみせることから初めて、彼女の内心に本格的に踏み込む前にわざわざ「ここで彼女の思考を少し伺ってみることにしよう」という前置きまで書いています。そのあとも、決してまっすぐと本題である「魔の山」の文庫本の話へと向かわず、「その本をここで失くしてしまったのだ!」と言うまでも言ってからも多くの字数を費やします。この、文章に対する態度、(見当外れかもしれませんが)多少導入がらしくない(冗長な)ものになったとしても面白さよりも叙述の一貫性が崩れないことを優先するという態度が、少なくともノベルゲームにおいてはほとんど見られない態度で、だから私はこの作品に惹かれたのです。

 

 

「スケッチ」と「英雄」

  母親はあまり理知的ではなかったが、行動的であった。母親自身が利他的な慈善な気持ちに富んだ人物かどうかというのもここではさして問題にならなかった。キリスト教ならば、教える本人が自堕落でも神様を手本にすればよかったが、母親は無宗教だった。よって娘が手本にするのは大量の本を集合させた実在しない英雄のことであった。娘は幼い子ども独特のひたむきさで必死で頭をひねったが、それから導き出された解答は母親を満足させなかった。

 娘に答えのない問を与えさせ、それでも考え抜いた答えを辛辣に批評して、娘の失敗を教えてやる。この果のない指導は終わりが見えてはいけないのだ。終わりが見えたとき、母親は美しさが永遠ではないことを知ったときのように教育もまた永遠ではないことに失望してしまうからだ。

「でもやっぱり確固とした答えのない問を強制され続けるほど、辛いことはないんだよ。何をいっても間違いで返されるだろうという確信を、いまさら変えることなんてできっこない。だから私は完全な答えがほしいんだ。それがないと生きていけないんだよ」



  とくに上に挙げた、「大量の本を集合させた実在しない英雄」という言葉が自分は好きです。この場面での英理の感情には共感できる部分があります。
  先程言ったように、本記事でこの作品の内容にたいして深く考えてみようとかそういうつもりはない(しその能力もない)のですが、この「英雄」というキーワードは本作の内容を整理する上で非常に有用な指針になりうる気がしているので、考えたことを漫然と書いてみます。(だれかの理解の参考にならないとも限らないので)

  まず、この「英雄」という言葉は製作者の方が意識的に用いたものだと推測できます。というのも、この作品の主人公の名前は河原「瑛雄」だからです。ちなみに「英」の字は勿論「野崎英理」の名前にも使われているわけで、単なる偶然であるという可能性は低そうです。
  では、本作は上の場面で述べられたように、「英雄」=「完全な答え」=「完全な理」を求めていた野崎英理が、河原瑛雄という英雄に出会って救われる話なのでしょうか? この解釈は間違っていないと思いますが、問題をあまりに単純化しすぎているように思えます。たしかに、彼は最終的には「英雄」になりました。これは親友が述べている通りです。が、いちいち引用はしませんが、彼は一度「英雄」の座から追われてしまっているのです。となれば何故彼がかつて、(偽の)英雄ではなくなり、しかし今再び英理にとっての「英雄」になることができたのかが問われなければなりません。また、救われたのは果たして英理だけなのかという疑問も尤もです。何度もアキオが言っているように、英理は彼にとっての憧れでした。とすれば、彼も同様に救われた(この言葉が悪ければ、何かの問題を解決・解消することができた)といえるわけです。となれば、お互いに不完全な彼らがどのようにして再び立ち上がれるようになったのかが問われなければなりません。
  さて、今の論点をより深く理解するため、この作品のふりーむでの紹介文を見てみましょう。

 

理のスケッチ。それは不完全だけど紛れもなく理の描像。神からすればその描像はあまりにも淡く、人間からすれば出来すぎていると言う。それでも人は理想を描かざるをえない。たとえ不格好でいびつだとしても、時間と技術が足りなくても、筆を手に取りキャンパスの向こうに夢を見る。地平線を見ては、スケッチを描いてそこに向かって突き進む。スケッチと地平線が溶け合うその瞬間を夢という。

 

一人は地平線を見失いスケッチを破いてしまった。もう一人はスケッチは完成されていて、見本である地平線そのものが間違っているのだと執着した。

 

悪魔に好かれた少年はまだ眠っている。天使の愛を否定し続ける少女は夢を見る。そんな二人が手を取り合うまでの物語。


  私の記憶している限り(全然間違ってることはありうると思う)、この作品のタイトルで使われている「スケッチ」という言葉が直接使われているのはこの紹介文だけです。これによれば、今「不完全」とよんだ彼らのあり方を「理のスケッチ」という言葉で理解することができます。「地平線」という言葉の意味をあえて考えるなら、「現実」や英理がいつか言ったような普遍性に還元できないような自分の人生の問題のことだと言えるでしょう。それを見失いスケッチを破ってしまったのがアキオであり、地平線そのものが間違っていると執着したのは英理です。こうしてタイトルまでたどり着いた今なら、「英雄」=「理」というキーワードから本作を理解することがさして無謀な試みではない気もしてきます。
  というわけで、このような問題設定で本作を読み解いてより深く理解できればと思っているのですが、まだ本作の全貌を理解しているとはとても言えないので、この作業はあまり進んでいません。尻切れトンボで申し訳ありませんが、この作品が好きな人にとって何かの指針となれば幸いです。

 

※現状把握してるこの方針の問題点:

  • もう一つの明らかに重要な対立軸である「屋上」と「教室」との接点がそこまで明らかじゃない
    「地平線」を「スケッチ」できるのは「屋上」にいるときだけ。と言ってしまえばそれまでなのですが、これだけではまだ足りない気がしています。下に挙げる親友の発言ももっと汲むべきでしょう。その他、クオリアや道徳論などに対して本作で展開された議論も同様です。
  • 「ピエロ」との関係
    無理に二項対立に持ち込む必要はまったくないのですが、「英雄」という言葉と対立して用いられている事が多い「ピエロ」という言葉について何も考えないというわけにもいかない気がしています。
  • そもそもこんなことする必要があるのか?
    本作のキャッチフレーズ(?)は「前半は哲学、後半は文学。ラストは言葉を伴わない。」です。哲学=物事を普遍的にまとめ上げること、文学=言葉を媒介にして他人の人生を見ること、とある通り、この決着は「言葉を伴わない」ものだとも言えるわけです。実際、普通に見れば英理が何に救われたのかなんてことは自明であって、それをわざわざ前半だけにしか妥当しない方法論で読み解こうとするのは本作に対して不誠実な態度である、と言えないこともないわけです。

「スケッチ」という言葉について:
 なにかある完全なものに対して、それを人間が不完全でも形にしようとする営みを「スケッチ」と表現するのはこれと言って変わった言葉遣いではないです。よって、この言葉の来歴に気を払う必要はないと思われます。仮にそれができたとしても、「カレーニン」という言葉の出処と同様に、この言葉を『存在の耐えられない軽さ』の中での用法に照らし合わせるとかそれくらいがせいぜいでしょう。
 なので、個人的な興味関心に近い話になってしまうのですが、いわゆる実存主義(というよりは現象学存在論)の用語として知られる「投企」という言葉は(日本語の字面の意味不明さとは対照的に)、フランス語(projet)やドイツ語(Entwurf)ではともに「下書き」、場合によっては「スケッチ」の意味を持ちます。私はこの辺に興味があるので、それを掘り下げるという側面からも、この作品での2人の「普遍的にまとめ上げることが困難な」「人生」に対する態度が「スケッチ」と呼ばれたことをもっと掘り下げてみたい気持ちはあります。

 

「親友」について


  散々英理とアキオについて語りましたが、実はこの作品で私が一番好きな登場人物は「親友」です。そのきっかけとなったのが以下に引用する場面です。といっても、おそらくこの台詞は現在のver1.1では削除されているので、もしここに載せることに問題があれば、コメントを頂ければ削除します。実際、この変更は「親友」のキャラクターの立ち位置を大きく変える変更なので、今更こっちを載せることは製作者の方にとっては非常に不快でかもしれないので。(どちらが良いかと聞かれればver1.1の方が良いと思うのですが、どちらが好きかと言われるとver1.0です。というより、この作品で一番好きな台詞がこれです。変更の経緯は製作者である捨て鳩さんのブログにも書いてあるので参考までに。http://ngrmds2016.exblog.jp/27843265/

 

 「屋上に行くんだろう? 屋上は俺のようなものにとっては手の届かない聖域なんだ。あの場所はあまりにも脆すぎるよ。大体今の学校に屋上なんて必要ないのさ。実用的な空調完備の設備さえ置く場所が確保されていればそれで十分。生徒が語り合う場所なんて用意する必要がないんだよ。
 いわばそれは計算外、設計外のイレギュラー。設計者は生徒が憩いの場として利用できるように屋上を作ったんじゃない。偶然の産物! 屋上のために学校はあるのではない。


 それに対して俺のいる場所は教室のような地に足の着いた生活の場所なんだ。そこでは生徒がひしめき合い絶えずつまらないことでせせら笑ったりたそがれたりしてる。知ったかぶったやつはそれを仮面の微笑みなんていうけどな、まぎれもなくその仮面は真実なんだぜ。その下に本当の顔なんてないんだよ。空虚なんだ、教室においてその疑いは意味をなさない。仮面の微笑みは紛れもなく心からの微笑みさ。


 間違っていることを言ってるか俺は? ははは! お前はやっぱり子供じゃなくて立派な大人だな! 言わなくてもその不服そうな表情を見てみればわかるよ。

 

 ……まるで俺の説明は人間から感情を都合の悪いものとして隠そうとしているように見えるんだろう? その通り! 俺にとってその意見を受け入れない人は都合が悪い人間なんだよ。表現と感情のズレを持っている人間というのがね。いやらしくも仮面の下からまるで本当の自分の表情がありますといわんばかりにちらちらパフォーマンスをする女々しい奴らがね。言いたいことがあるなら口で言えってんだ。


 それをいつまでたっても折り合いをつけようとしない未熟な人間が幼く見えて仕方がないんだよ。それは本来子供の内に済ますプロセスなんだ。膝が擦りむいているから泣いてるのかい? それは悲しいというのだよ。悲しかったら誰かに助けを求めようね。こんな感じで教えてあげないといつまでたっても子供は動物のままさ。せいぜい痛みに金切り声をあげるだけで、助けが必要だとか自分からいいやしないからね。慟哭することしかできない子供は教育しなければならない。言葉を用いて必要なことをなせ。発話から意図することを学べ。


 なに、それができないだって? 甘ったれてるな。ムチでピシャリ! 暴力に対して厳しい現代ならどうするかな? まあ言葉で折檻するのが一番かな。

 ……怒声罵声罵詈雑言、理不尽な語の塊を矛盾含めて一斉にぶつけてがんじがらめにしてやるのさ。まあそのうちその牢獄なしには生きれない身体になってるわけだ。

 

 ――移ろいゆく魂は言葉の牢獄に宿されし、精神飛翔の暁には霧散して消える幻かな

 

 はは! どうやら俺は詩作の才能があるらしいぞ!」

 

  「これで決別というわけではないからな! 俺とお前はもしかしたら家族よりも彼女よりも長い付き合いになると思うぜ。ただの腐れ縁、という言葉で表現しきれないのさ俺達の関係は。今の時代なら家族よりも俺とおまえの関係は根深いものだ。かつては俺とおまえの関係は逆だったんだがな。今では俺はお前なしには存在できないし、お前は俺の存在なしでは生きづらいと思うぜ? だからこれでお別れなんて軽々しくいうんじゃないぞ。女が原因で関係がこじれたなんてごめんだからな!」


 まず、この思わず音読したくなるような長台詞です。日常会話からすると到底ありえませんが、こういうのが自分は大好きです。
 そして、話は個人的なことにまたもやなるのですが、この台詞を私が好きな理由は内容にあります。「屋上」に対する考察や、「仮面」には中身なんてないということ、そして、それが大人になることだということ、それが見事に1つの台詞として表現されていて、感激したことを憶えています。(それどころか、どこにも公開していないのですが私自身実は全く同じような(しかし表現力ははるかに劣る)内容の文章を書いたことがあります。こういうところからもやっぱりこの作品は他人事だとは思えない)
 また、この台詞は本編と無関係だとも言えません。たとえば「屋上」と「教室」の対立はこの台詞をもってより深く理解することができます。
 もう一つ、「仮面」にその中身があるのかどうかということをこの場面で述べることはは本編のその後の展開について大きな意味を持ちます。たとえば、その後の場面でアキオが鉄壁に思われた屋上の英理に踏み込むきっかけとなったのは、彼女の「涙」なのでした。この「証拠」は「優しい」ものですが、それでも、彼はこの証拠がなければ踏み出せませんでした。でも、「涙」や「日記帳」が仮面(表現)であることもまた事実であり、その意味ではこの時点のアキオは親友の発言を超えることはできていません。親友が「俺の存在なしでは生きづらい」と言った意味の一端をこの例から理解することもできる気がします。(これは妄想である可能性も高いですが)
 この、「行為」と「内面」という軸も本編で重要な意味を持っている気がします。個人的に興味がある分野でもあるので、これも掘り下げてみたいです。

(関係あるかはわからないのですが、製作者の方はサールに詳しそうなので、その方面からアプローチするのも良いかもしれません。が、個人的に、英米哲学には苦手意識があるのでできれば別の方向から攻めたいと思っています。本作においても「演技」という一種の「引用」が1つのキーワードなので、むしろ逆のデリダの側から見るのも面白い? かもしれません)

 

 

 


 結局この物語の核たる部分には大して触れられず、その周りをぐるぐる回っているだけみたいな記事になってしまいましたが、とりあえずここで筆を置きます。

 

 何はともあれいい作品なので、この記事を読んで興味を持った方はぜひプレイしてみてください。

『serial experiments lain』 考察メモ(3)後編 13話を考える

 

 この記事が最後の記事になります。

 

 前回はこの作品を考察するとはどういうことかを考えることからはじめました。得られた結論は、この作品を考察するためには少なくとも「玲音はどこにいるのか? 何か?」という13話冒頭で提示された問に答えられなければならない、というものでした。そして、私はこの問を理解することをこの考察記事の問題設定としました。

 この問が開かれているのは、「こっちーそっち」という場所概念によって観念されるような地平です。そして、この問の答えは、「私はここにいる」でした。なので私達は、「こっちーそっち」というのがどこを、何を指しているのかを答えることができれば、目標を達成できることになります。

 この問(「こっちーそっち」とは何か)に誰もが疑い得ない絶対の解釈を与えることができるような絶対の根拠は作品中には見つかりません。結局のところ、「えいや」で答えを与えるしかないのですが、そのためには作中で語られた論点を可能な限り拾うべきでしょう。

 ということで、今回は13話本編を読み解いていくことから始めましょう。。

 


Aパート


 Aパートには理解が難しい場面は特にありませんが、後々のために一つだけ問題提起をしておきます。

 Bパートでれいんが言うように、13話で玲音は自分の存在(記憶)を消します。ここで素朴な疑問なのですが、どうして玲音はここまでしたのでしょうか?

 彼女がその決断をするのは、英利の姿を見て頭がおかしくなったありすを見たからです。でも、9話でやった通り、その記憶を消して過去からやり直しても良かったのではないでしょうか? 実際、れいんは玲音に、「もう一度はじめからやり直す」ことを提案しますが、玲音はそれに同意しません。それなのに、玲音はちっとも嬉しそうに見えません。これはいったいどういうわけなのでしょう。

 

 

玲音とれいんの会話

 Aパートの話はそれくらいにして、Bパートに移りましょう。まずは玲音とれいんの会話からです。

 この会話は大いに見るべきところがあるように思えますが、あらかた前回までで語り尽くせたように思えるので、次の二点についてだけ述べます。「ワイヤードがどこにつながっていたか」という点に関しては、非常に重要であると思えるものの、本作の記憶概念に強く根ざした議論なのでここでは扱わず、余裕があれば前々回の記事に追記しておきます。


玲音ははたして肉体を必要とするのか?

 これは、このシーンの解釈というよりは、ここまで続けてきた考察の前提を確認する作業です。

 今まで私は何度か、「この作品はワイヤードvs物理世界(あえてリアルワールドとは言いません)という対立を考えた上で物理世界を上位だとみなすようなものではない」という趣旨の発言をしたと思います。

 私がこの立場を取る最大の根拠がこの場面です。はたして、この場面の玲音は肉体を持っているように見えるでしょうか?

 このシーンで玲音とれいんは自由気ままにさまざまな場所を渡り歩きます。当然、常識的に考えれば肉体を持っている存在がこんなことをできるわけがありません。他にも、本作で玲音の肉体性が最も強調された場面は12話のありすとの会話ですが、玲音以外の存在がいない世界である以上、他者と物理的に触れ合う事ができないので、この側面からこのシーンでの玲音の肉体の有無を捉えるのはそもそも意味がありません。他に、肉体の役割を「自分がここにいるということを知るため」だと言っていた箇所が何処かにあったような気がするのですが、そういう意味での肉体なら英利(エイリ)だって持っていたわけです。

 結局、肉体というのは、他者とのふれあいとか、疲れとか、死とか、有限性とかそういう観念と組み合わさって初めて常識的な比喩として適切に解釈できるものです。だから、そのいずれとも結びつかないものをわざわざ肉体と呼ぶ努力をする必要はないでしょう。

 以上のように考えて、私は玲音は肉体とは関係ない、より正確に言えば、その本質を肉体に持たず、別に肉体がなくなっても存続できる存在だと考えました。なので、繰り返しになりますが、本作で何回も言われた、「肉体は無意味」という言葉は殆ど間違っていません。問題なのは、それを主張する人たちがそれぞれ思い思いに立てた「無意味じゃないもの」がことごとく間違っていたということなのです。

 

 

「れいん」とは何か

 このシーンで玲音の会話相手となる存在は便宜上「れいん」と呼ばれます。世間一般では、ワイヤードの女神とも見なされます。

 前々回に、「レイン」は岩倉玲音を「目的」という観点から見た存在だということを述べました。前回、一見してレインに与えられる特徴を無視してまで私がそのように解釈した理由について述べました。それは、私たちは13話の問が発された時点から物語を解釈しなければならないという理由でした。その観点から言えば、「レイン」を岩倉玲音にとって本質的な存在だとか、彼女のあるべき姿だとか解釈しても問題ないという話もしました。

 「れいん」の存在は、基本的にはこの系譜に連なるもので、言ってしまえば岩倉玲音のあるべき姿、本質です。

 「レイン」は結局のところ英利が(ナイツなどを経由して)作り上げた存在で、ワイヤードとリアルワールドを破壊するプログラムでした。その限りで、「レイン」は英利が使用する「道具」だと考えてしまってもいい存在なわけです。その意味では、玲音がこれまで感じてきた苦痛は、英利が「レイン」という道具を使って行った嫌がらせによるものだという解釈だってありうるわけです。

 さて、12話で玲音は英利の矛盾を指摘し、彼は自滅します。彼女に嫌がらせをする存在はいなくなったわけですが、「レイン」の存在がいたことで彼女に引き起こされた問題はそれで解決したのでしょうか? 答えはもちろんNOです。その過程で彼女は人類の集合的無意識が意識へと転化されたものだということ、が明らかになったことで、やはり玲音は「彼女のように見えるのに玲音にとっては自分が彼女だとは到底思えない存在」と自分とがどう違うのかについて悩まされます。そして13話冒頭の問に繋がるわけです。

 このような背景の下で現れた、玲音に対する対立項こそ「れいん」です。岩倉玲音は人類の意識全てとつながっており、それらを自由に操作できる。そんな絶大な力を持った彼女の本質をなんと名指せばいいのか? 答えはもちろん、「神」です。岩倉玲音が英利政美が作ったとおりの、「ワイヤードとリアルワールドの境界を破壊するプログラム」だったのかどうかは(英利ですら誰かに操られていたかもしれないことがわかっている)今となっては定かではないですが、彼女が神と呼ばれるに値する実行力を持っていることは疑いえません。それを象徴化したのが「れいん」という存在です。
(作品上の役割からすると、「レイン」と「れいん」は同じ存在だと言ってしまって問題ありません。要は「レイン」という現実で玲音が出会った存在から、玲音の存在を考える上で不必要な部分(英利など)を抜き出して純化した存在が「れいん」です。さらにパラフレーズするなら、13話の問が発された時点で振り返ったときに、かつてレインであった存在がそうなっていたものが「れいん」です。このあたり、私の前の記事は錯綜していて、本来は「れいん」に任せるべき役割を「レイン」にもたせてしまっていたりします。すみません。)


 では、彼女との会話で玲音はどのような結論を下したかというと、それは見て分かる通り、「彼女は私ではない」です。しかし繰り返しになりますが、英利の場合とは違って、彼女が神に値する存在であることは疑いようがありません。「玲音」は「レイン」ではないかもしれませんが、「れいん」であることは間違いないのです。

 その事実を端的に、皮肉を交えて示すのが2人の会話の結末です。玲音は自分が神であるという解釈を、ワイヤードの神と同格の存在である「れいん」を消し去るという方法で拒否します。自分が神であることを否定しながら神と同格である存在を気に食わないからという理由で消し去る存在。そんな存在に対して、れいんが去り際に

「じゃあ、あなたは何なのよ? 玲音」(13話)

 と問うのは至極もっともに思えます。

 

 

玲音と康男の会話 分析の準備

 今まで見てきた通り、ここまでで為されたのは問の確認で、新しいことはありません。というより、私は13話の冒頭の問が発された正確なタイミングは玲音がれいんを消した瞬間だとするのが適切だと考えています。実際、そこでは冒頭で述べられた問が繰り返されます。

 というわけでこの問の解決は、玲音と康男(玲音の父)の会話の場面で為されると思われます。特に深く考えずに見ても、重要な場面はここだと直感的にわかるでしょう。

 以下に引用します。

 

(玲音、フードを脱ぐ)
康男「玲音。もういいんだよ、そんなものを被らなくても」
玲音「お父さん、知ってる?」
康男「なんだい?」
玲音「私、みんなが……」
康男「好きだって?」
康男「違うのかい?」
(玲音、泣き出す)
康男「玲音、今度美味しい紅茶を用意しよう。そうだ、マドレーヌも……きっとだ。おいしいよ」

 

 この場面を解釈するにあたって、まず、この場面に非常によく似た次の場面に注目することから始めましょう。

 

 (カール(黒服)、レンズアイを外す)
カール「私達には、あなたが何なのか、未だに理解できていない」
カール「しかし、私は貴方が好きだ」
カール「不思議な感情ですね。愛というのは」
(10話)

 

 玲音は、フードを脱いでみんなが好きだったと言おうとしました。一方、カールは、レンズアイを外して貴方が好きだと言いました。形の上では2人の行動の類似は明らかに思えます。

 しかし、「何故カールなのか?」という疑問も当然湧いてきます。彼は重要なキャラクターですが、13話の一番重要な場面で鍵を握る人物であるとは到底思えません。

 この疑問は、10話「LOVE」の内容を思い出せばすぐに解決できます。この回にはもう一人、何かを外しはしなかったもののカールと同じく彼女に愛の告白をした人間がいました。後で必要になるので周辺部分も含めて抜き出します。

 

康男「これでお別れです。玲音さん」
康男「もうご存知になったんでしょう? 私達の役目は終わったんです。短い間でしたが、大したお世話もできず」
康男「あなたはこれからどうしようと自由です。いや、最初からあなたは自由だったんだ」
康男「お別れを言う許可は得ていないのですが、私はあなたが好きだった」
康男「別に家族ごっこが楽しかったわけじゃあない。あなたという存在が、私には羨ましかったのかもしれません。じゃ」

(10話)

 

 相手がカールなら役不足ですが、康男だったら何の問題もありません。13話で話しているのも康男と玲音だからです。

 さて、カールを経由して、13話のシーンと10話のシーンを繋げることができました。10話の会話には「フードを脱ぐ」に相当する物がありませんが、これは容易に想像がつきます。カールがレンズアイを外した意図を、「本音を言うため」、「自分の役割とは矛盾する言葉を言うため」だと想像するのは自然です。とすれば、康男の場合、「父という役割を外れる」、「偽物ではなく本当の関係で話す」ということが、「フードを脱ぐ」ことに相当していると考えていいでしょう。

 このシーンの分析にとりかかるまえに、もう一本だけ補助線を引いておきます。10話にはもうひとり、彼女に告白する人間がいました。しかし、彼の行動は他の2人とは大きく異なっており、2人の「愛」とは何であるのかを定めるための参照軸として有用です。

 

英利「かわいそうな玲音。もう一人ぼっち。でも僕がいる。愛しているこの僕がいる。君をこの世界に送ってあげた僕を、君は愛してくれるはずだ」
英利「僕は、君の創造主なんだ」
(10話)

 

 さて、カールのことはもう忘れていいでしょう。玲音を「作った」英利と玲音の「父親」である2人はともに玲音の「創造主」です。この点を踏まえた上で、2人の愛の違いは次のようにまとめられます。

 

  • 相手の愛を要求するか
    英利は、要約すると、「君は(創造主である)僕を愛してくれるはず」といいますが、康男はそれを要求することをしません

  • フードを脱ぐか
    康男は「フードを脱ぎ」ました。ここで、康男にせよカールにせよ、「フードを脱が」なければ愛の告白をすることはできないと考えるのはそこまで変ではありません。一方、英利はそんなそぶりを見せません。


玲音と康男の会話 分析

 以上を踏まえて2人の会話を分析します。

 


フードを脱ぐ

 康男は「もういいんだよ、そんなものを被らなくても」と言います。先程見た通り、康男の方の愛の告白のためには、「フードを脱ぐ」ことが必要だと考えることはそこまで常識はずれではありません。とすると、康男の発言は玲音へ愛の告白の許可を与えます。

 

 当然浮かぶ疑問は、どうして玲音はこの場面で康男に許しを与えられなければ「みんなが好きだった」と言えなかったのか、というものです。そのためには唐突に思えますが、そもそも、今までの玲音の「愛」、このシーンに至るまでの玲音の「愛」は2人のうちどちらのものだったのかを見極める必要があります。

 

「では、次のメッセージです。玲音を好きになりましょう」


玲音「ありすは、私が繋げなくても、私の友達になってくれた」


玲音「私、ありすが好き」

 

(いずれも12話)

 

 以上挙げた例からも分かる通り、13話以前の玲音の「好き」という感情は、康男よりも英利に近いものでした。では、次に疑問に思うのは、何故玲音はそのような愛しか持つことができなかったのか、ということです。この疑問は、康男の愛の告白は何故「フードを脱が」なければならないかという疑問と合わせて考えるとわかりやすいです。ここで効いてくるのが、英利が言った「創造主」というキーワードです。

 もし、康男が「フードを脱ぐ」ことなく玲音に愛を告白する、つまり、まだ自分が偽物の父親であることを明かさずに玲音に愛の告白をしたらどうなるか、ということを考えてみましょう。まず、この言葉は正確には伝わりません。何故なら、康男が玲音に本当に伝えたかった意味での愛を彼女に伝えることは、親子という関係がある場合には不可能だからです。さらに、玲音は果たしてその愛を正しく受け取ることができるのか、という論点もあります。親(創造主)が、その子供に向かって親子の情とは異なった、「愛」を告白する(必ずしも恋愛的なものを意味しません)。はたして、その生活の全てを親(創造主)に依存している子供はその「愛」を受け止めることができるでしょうか? 不可能である、と答えることに大きな飛躍はありません。英利がそうであったように、創造主の愛はそのまま伝えられてしまうと必然的に被造物からの愛を要求することになってしまいます。

 さて、玲音は2人の被造物(康男の場合は違いますが)であると同時に、全人類を支配することができる「神」でもあります。だから、この理屈は彼女にも適用することができます。

 全人類の創造主にも等しい能力を持つ彼女は、それゆえ、その愛を被造物である人間に伝えることができないのです。これは、康男や英利の場合とは規模が大きく異なります。康男は、結局彼女に愛を打ち明けることができました。なぜなら、その親子関係は本当は偽物だったからです。つまり、「フードを脱ぐ」ことができたからです。英利は? 彼が生み出したのは結局「玲音」1人だけです。人類全員に対して愛を告げることが不可能になった玲音とは状況が大きく異なります。そうでなくても、英利は誰かから愛を要求することに対して罪悪感をおぼえることはないでしょう。英利はそもそも、他の人間なんて好きじゃなかったのです。

 実際に玲音が誰かに愛を伝えてしまったらどうなるのかは、ありすの結末を見れば明らかでしょう。たしかに、彼女がおかしくなってしまった直接の原因は英利ですが、その大本の原因は玲音がありすを「繋がなかった」からです。そして、その原因は彼女がありすのことが好きだったからです。

 以上を踏まえれば、私がAパートで(わざとらしく)触れた、「玲音が自分を消さなければならなかった理由」が分かります。何故玲音は自分の存在を消す必要があったのか? 「みんなが好きだった」からです。何故玲音はそれなのに悲しそうなのか? その好きだったみんなに思いを伝えることができなくなったからです。その誰にも会うことができなくなってしまったからです。それを誰かに伝えることすらできなかったからです。何故、それを伝えることができなかったのか? 「神」である彼女にそんな許しを与えることができる存在などどこにもいなかったからです。

 さて、このシーンではその玲音に対して、康男が与えられないはずの「許し」を与えます。何故彼女が涙を流したのか、それでどれだけ彼女が救われたのかは明らかだと思います。そして、このシーンが彼女の考えにとって大きな転換点になったことも理解できると思います。

 

「みんなが……」「好きだって?」

 13話でれいんは、「それを人がしる必要があるのかな?」と言います。これは直接は「ワイヤードがどこにつながっているか」に対する返答ですが、このような一種の不可知論が本編に挿入されることの意味は大きいです。具体的には、この作品で最上位の神を想定することが許されることになります。なので、このシーンの康男を玲音よりも上位の神であると考えることに問題はありません。

 しかし、こんなデウスエクスマキナで片付けてしまっていいのかという疑問はもっともです。なので、少し勇み足かもしれませんし、考察の本旨(13話の問の解釈)とはそこまで関係ないのですが、康男が玲音の言葉を遮ったシーンから想像を膨らますことで上位の神の存在抜きで説明しようと試みます。

(というより、この段階で、13話の問である「玲音は何か」から、それを問わしめたところである「何故玲音は神であることに納得出来ないのか」という暗黙の疑問へと重心をずらすことは正当化できると思います。基本的にこの記事では最初の方針を守るつもりでいるので、それはしませんが)

 仮に、全てが玲音の妄想であるとしましょう。つまり、玲音は最終的に自分のことを認めてくれる妄想の父親を作り出したということです。これは、間違った解釈ではないですが、心情的に受け止めることができるかというと微妙です。彼女の感情の動きを考える上では、この経験が本当のものであっても妄想のものであっても変わりませんが、我々はこの経験が真正なものであってほしいと思います。

 実は、一つだけ条件を付け足せば、これが空想であっても真正な経験であると言うことができます。それは、これがただの空想ではなく、彼女が実際に経験した出来事をもとにした空想だという条件です。

 先程述べたように、この場面は10話の場面の立場を逆にしたものです。とすれば、この「空想」は、実は以下のような出来事のメタファーだと言うことができます。すなわち、「玲音は絶望のさなかで、自分が『みんなが好きだった』事に気がつき、それを誰かに伝えたいと願ったが、記憶の中に、全く同じ事をしようとしていた人を思い出した」という出来事です。

 自分と全く同じ行動を取ろうとしていた人の記憶。これが意味するものは何でしょうか? それは、自分と全く同じ感情を抱いた他者の存在です。

 とすると、少し説を修正しなければなりません。玲音を救ったのは誰かに許しを与えられたことではなく、自分と同じ感情を抱いた誰かの存在に気がつくことができたことです。他者との通路を全て遮断してもまだ残る誰かの残滓。それは自分を自分たらしめる記憶の中にあり、断絶のさなかにも他者の存在を玲音に知らしめました。あるいは、これはある、場合によっては単なるコミュニケーションよりも深い、逆説的な「繋がり」なのかもしれません。

(これ以上深めることはしませんが、もし気になる方は10話冒頭に玲音と英利の間でなされた(意地の悪い)先読み合戦と、この康男と玲音との会話無き会話とを比較してみると面白いかもしれません)

(述べるタイミングがなかったのですが、10話の康男の言葉の「あなた」や「玲音さん」を「みんな」に、「家族ごっこ」を「人間としての日々」などに置き換えると、これを玲音が発したかったメッセージに読み替えることができます。別にこの考えが正しいという根拠はどこにもないのですが、それなりに納得できるメッセージになります)


ありすとの会話

 さて、今までの分析でもう考察の目的自体は果たせそうですが、せっかくなのでありすとの会話についてもかんたんに触れておきます。

 前の場面は過去の場面の反復だったわけですが、この場面も反復だと考えることができます。ありすは、その恋人の「先生」と一緒に歩いています。そして、2人は「ベッドルームのカーテン」なんて話もしています。多少飛躍しますが、このことから、この場面を8話のシーンのやりなおしだと考えることができます。

 玲音は過去、何度もありすを傷つけました。もう、玲音は彼女を傷つけることはしません。ソファ→部屋の外→歩道橋と、彼女がありすへの距離を大きくしていったことからも明らかです。

 おそらくは、これが正しい彼女たちのあり方なのだと思います。それでも玲音は幸せそうに見えます。何故か? 自由に想像していいと思います。誰かに理解してもらえて、問題を解決できたから、と普通に考えてもいいでしょう。あるいは、少し深読みをゆるすなら、玲音は、この短い会話でも、「未来」にありすが振り返って、玲音が父親との記憶を回想したときのように、過去の2人の気持ちを通じ合わせるような「繋がり」が見込めると思ったからかもしれません。記憶は過去だけじゃなく、未来にも続いていくものなのですから。

 

 

総括

 さて、以上で13話本編の分析はあらかた終わったので、前回提起した問題に対して解答を与えましょう。最初に述べた通り、最終的には感覚的に答えを出さざるを得ませんでした。


「こっち」と「そっち」

イメージとしては、13話Bパートの玲音の世界と普通の世界との区別が一番わかり易い用に思えます。より理屈をこねて説明するなら、本来人間の意識とそれが集まって創発した意識とは別の世界にあるはずのものであって、誰かが勝手に繋げなければ交わることはありませんでした。その繋がりを切った上で、玲音が本来いるべき側を「こっち」。普通の人間が要るべき場所を「そっち」とするのが適切だと思われます。

 「つながってるからそっち側のどこにだっている」、といったときの「繋がってる」という言葉の意味は、人間の脳細胞が人間の意識にたいして持つ意味での「繋がってる」という言葉と等しいです。その意味では依然として玲音は他の人達と繋がっているのですが、それは、英利が行ったような、玲音と他の意識とをその階層の区別なく繋げてしまうというものとは様相をことにしています。(集合と冪集合が繋がってるイメージ)


玲音は何か? どこにいるか?


 玲音は、「神」です。より正確には、人々の意識が集まって創発された新しい意識ですが、これを神と呼ぶのは間違っていないでしょう。結局のところ、玲音とれいんは同じものです。
 もちろん、玲音はそんなことははじめからわかっていました。それなのに、玲音は自分がれいんであることを受け入れることはできません。それはなぜか、という話は上でかなり詳細に渡って説明したのでここでは省きます。

 以上の説明で、目標は達成できたように思えます。

 この物語の最後を飾る次の言葉も、今では理解することができるでしょう。

 

「私はここにいるの。だから一緒にいるんだよ。ずっと・・・」(13話)

 

  長かったですが、当初の目的は達せられたように思えるので、ここで考察を終わります。読んでいただいてありがとうございます。(長かった)

 

 

『serial experiments lain』 考察メモ(3)前編 13話解釈のための問題設定と予備分析

 

 予告通り、今回は『lain』の最終話である13話について考えていきたいと思います。


 はじめに断っておきたいのは、わざわざこの回だけ特別に扱う理由は、単に最終回であるからというだけではないということです。実際、何を言っているのか、やっているのかわからない場面というのはこの作品にはたくさんあるわけで、この回についての考えを述べるだけでその営みを打ち切ろうというのなら、それ相応のエクスキューズが必要になります。

 このあたりをはっきりさせるためにも、まずは、「なぜ13話について説明できればこの作品の『考察』として十分なのか」という点について私なりの解答を与えたいと思います。

 

考察の考察

 もう少し視野を広げて、より一般的に、ある物語を考察するという行為について考えてみましょう。

 今日、ある作品に対する「考察」はどこででも見ることができます。Googleの検索窓に作品名を入れて、横に「こ」の文字を付け加えればよくわかります。その内実はさまざまで、方法論についても、展開予測や単なる感想にとどまるものから学術論文一歩手前のところまで、また、対象についても、本作のようなアニメや漫画から、純文学、果ては曲の歌詞にまで多岐にわたります。

 このような「考察」はもちろん個人の自由です。人がある作品から何を読み取るかは自由ですし、それを常識的な手段で表現し、公開することには何の問題もありません。

 一方で、本当に考察なんてものはその作品に必要なのか、という疑問を抱くことも、また自由です。とすると、次のような連想も不自然ではありません。「不必要な『考察』を掲げる人たちの大きな声でその作品の受容が歪められてしまうのは、果たして、正しいことなのか?」という連想です。具体的には、20年も前のアニメに対して賢しらに数万字にも及ぶ頭の悪い「考察」を書きたて、検索結果を汚染することは正しいことなのか、それは作品にとって迷惑以外の何物でもないのではないか、という疑問です。(自己紹介です)

 もちろん、私はこの記事にそんな「正当性」なんて求めませんし、私程度の記事がこの作品に対する未だ根強い人気に冷水を浴びせることができるだなんて考えることすらおこがましいです。しかし、それでも、何か作品の方から導いてくれるものがあって欲しいと思うのです。ある作品を見たとき、誰もが抱くであろうと信じている、「よく考えてみなければならない」あるいは、「よくわからないけど、ここには本当に大事なことが述べられているような気がする。そして、それは解き明かされるべきだ」という直観は本当に無意味で無根拠なものなのでしょうか? あるいは、それは口さがない人達が言うように、ペダンティック中二病患者を釣るために製作者によってまかれた餌にすぎないのでしょうか? 私がほしいのはこのような意見に対してたとえ弱々しくても反論できるような何かです。

 


本考察記事の目標設定


 そんな問題意識をもって本作品の最終話(13話)を見てみると面白いことに気がつきます。

 御存知の通り、冒頭、テレビの画面を映したようなノイズの中から、玲音が「こちら側」へと問いかけます。そして、この回の最後には、再び彼女が私達の前に出てきて、冒頭で述べた問に対する答えのようにも思えるメッセージを残していきます。つまり、よくよく見てみると、この最終話は「問題→本編→解答」という構造をしているわけです。

 あるアニメの最終話が、主人公による、視聴者に向けているともとれるような形での問題提起に始まる。そして、一番最後の場面に、同じくそれに対する答えのようなものが述べられる。こういう状況で、この問いかけと答えこそが、この物語が伝えようとした最も重要なメッセージだと主張することはさして奇異なことではないでしょう。

 とすれば、この作品が伝えようとしたメッセージは明々白々なものなのでしょうか?

 形の上ではたしかにそうです。でも、こんな答えで納得できる人はいないでしょう。何せ、13話冒頭の内容は雑にまとめると、「私はこっちにいるのかそっちにいるのか?」で、その答えは、「私はここにいる」なのですから。私たちはこの作品が発する最も重要な主張を形の上では手に入れることができましたが、その意味は依然として不明です。

 そう。普通に見ればこの作品は意味不明です。だからこそ、私たちは自然に次のような問題を設定することが可能です。

 

13話で提示された問とその答えは何を意味しているのか?

 

 これこそ、私達が探していた、「考察」のための導きの糸です。というのも、この問題の意味を問うという目標を設定するという一見小さく見える一歩だけでも、私たちは次のように多くのものを得ることができるからです。

  • 「考察の正当性」
     何はともあれ、問題とその解答は形式的に与えられたのだから、それを形式的に、つまりは比較的論理的な方針で解きあかそうとする試みは咎め立てられるものではない。解答を提示しないまま読者への挑戦状だけで終わったミステリーに対して私達が意見を述べることができるように、私達もこの問を解こうとする限りにおいてこの作品を「考察」してもよい。この問は開かれている。
  • 「考察の終点」
     もし、作品に対する「考察」なるものを「作品に対する考究」と定めるなら、それは終わりないものとなる。しかし、作中である問題が提示され、それを解くことを目標として掲げるなら、その行為の終了を持って「考察」に一段落つけることができる。ある程度明確なゴールを設定できることは本作のようにさまざまな解釈を許すような作品を扱ううえでは大きい。よくわからないさまざまなものの中で、確実に説明できなければならない小領域を切りなはせることは重要である。
  • 「考察の方針」
     私たちは問も答えもすでに手に入れている。それなのに、何故それがわからないのか? 簡単である。「そもそも何を問うているのかが理解できていない」、「さらに、問がどのような答えを要請しているのかも理解できていない」、「問と答えは分かったがそれがどのように導かれたのかが理解できない」……
     さらに重ねて、「何故問が理解できないのか」、「何故…」、と繰り返していくことができる。これは難しい問題だが、例えば今回のような場合は指示語や指示対象を明らかにする、どんな言葉で問われているか、その言葉は作品中でどのように使われたのか、など、可能な限り今あるものを綿密に分析することが初手であることは間違いない。


 いままではっきりとは書かなかったのですが、実はこの作業こそ私がこの3回に及ぶ(4回になりましたが)考察記事でやりたかった唯一のことです。今更こんなことを言われても困るかもしれませんが、私は前回前々回の記事が直接正しいことを言っているかどうかにはほとんど興味がありません。私はこの作業を行うことにどれだけ貢献するかということ以外で前回前々回の記事を評価するつもりはありませんし、だからこそなかば強引な論法を振りかざしたのです。とはいえ前の記事を軽視するつもりもありません。問題というのは、案外それを理解することや、それがどのような地平に対して開かれた問なのかを理解するほうが解決よりも難しかったりするものです。その意味では、本編よりもその準備により多くの字数を費やしたとしても何の不思議もないでしょう。

 さて、やることははっきりしています。まずは、今ある問いとその答えを可能な限り綿密に、形式的に、多くの人が納得してくれるような形で、なるべく主観を交えずに、分析することです。非常に難しい課題ですが、できるかぎり取り組んでみようと思います。

 

問の予備分析

「ーーえっと、私またわかんなくなっちゃって…… 私がいるの、こっちなのか、そっち側なのか。
 私、そっち側のどこにだっている。それは知ってるの。だって繋がってるんだもの。でしょ?
 でも、私の、本当の私のいるところってどこ? あ、本当の私なんて、いないんだっけ。私は私の存在を知っている人の中にだけいる。けど、それだって、今こうやってしゃべっている私は、私、だよね?
 この私って、私って、誰?」
(13話冒頭 平仮名だと読みづらいので「あたし」を「私」に変えました)


この問のさしあたりの意味
 私たちはゼロから始めなければいけないわけではありません。前回までの記事で行った考察(正確には「前-考察」)によって、私たちはすでにこの問の大まかな意味、さしあたって分析を進めていくのに必要な意味は理解できています。だいたい次のような感じです。

 玲音は、この物語の主人公であり、この物語は彼女の一人称視点で語られている。彼女が彼女の視点から物事を見ているという限りで、彼女の存在は疑い得ない。しかし、彼女の存在から、そのありとあらゆる特徴を奪い去ることは可能であるし、そもそも彼女には作られた目的があったのだが、その目的は彼女ではない彼女、「レイン」によって果たされており、彼女は彼女の本質と全く関わり合っていないように思える。本質に関わっていないはずなのに、彼女の視点から世界を見ている彼女にとって彼女の存在はやはり、疑い得ない。じゃあ、「玲音」とは何か? その生み出された目的や本質と全く関わり合わず、主観的には普通の内気な女子中学生で、にも関わらず、やろうと思えば世界を意のままにすることができる彼女とは一体何なのか。一言で言うと「玲音とは何か?」

さて、以上のように把握した上で、細かいところを見て理解を深めていきましょう。

 

「また」わからなくなる
 「また」、という言葉の存在によって、この問は本編と同じ時間軸で発されたものだということができます。少なくとも、この問が、常にこの作品をこのままの形で貫いていたような無時間的な問ではないということです。この問には、本編とリンクした時間軸において発せられるあるタイミングがあり、状況によっては発することができなかったりするわけです。


 問が時間に依存したものなのかそうでないかということは極めて重要です。前者に答えるだけなら、答えるために必要なその作品に対する理解は、1話の内容、2話の内容、3話の内容、……と、それぞれをそれを見た当時に見たときの印象を元にするだけで十分です。しかし、問に発されたタイミングがある場合、特に本作のようにあるキャラクターの主観に物語が依存している場合は、「n話の内容」をそのまま捉えるだけでは不十分で、「n話に対する問いが発された時点での解釈」まで踏み込まなければなりません。つまり、この問に答えるためには、『lain』の内容を無時間的に捉え理解するだけでは不十分であり、13話冒頭から振り返ったときの各話を理解するのではなくてはなりません。言い換えれば、「8話は何を言っていたのか」ではなく、「13話の地点からすると8話は何を言っていたということになっているのか」を考えなければならないのです。


 前回の記事で、私が「記憶」を捨てて「目的」をレインの存在原理だと主張した最大の理由がこれです。1から12話を上で言った通りの意味において、「無時間的」に捉えれば、正しいのは「記憶」からレインを解釈することです。その説を退けたのは、私の目的からすると、問題にすべきは、12話の12話地点でどういう意味を持っているか、ではなく、12話を13話から見るとどういうことになっていたか、の方だったからです。


 もっと極端な話をすると、実は、この問に答えるためには「レイン」という存在に対する直接の解釈は必要ありません(「レイン」は13話では出てこないし問題にもならない)。なので、「レイン」をあの激しい性格の一個体として捉えるのではなく、それをもっと推し進めて、「岩倉玲音の理想的な姿」とか「本来あるべきだった岩倉玲音」だとか、この問とあう形で読み替えることは可能です。(もちろん、本編に忠実であるべきです)。前回の私の「レイン」解釈に対する違和感はこれでだいたい解消できると思います。


「こっち」と「そっち」
 発せられた状況からすると、視聴者から見て、こっち=画面の向こう側、そっち=画面のこちら側、と考えるのが普通かもしれません。が、はたして、この作品にそんなメタな視点を持ち込む必要があるかはまだ疑問のままですし、これがファイナルアンサーだという確証はありません。解答が「私はここにいる」である以上、「ここ」と「そこ」に意味を与えることは、この問題を解くことと等しいわけです。なので、この言葉の意味は今の段階では踏み込むべきではないでしょう。同様に、ワイヤード/リアルワールドのことだと考えることもできますが、今の段階では深くは追わないことにします。


繋がっているからそっち側のどこにだっている
 そっち側のどこにだっている、というのは、lainのことでした(一回目の記事参照)。逆に、「そっち側」とはlainがいる場所だということになります。
 繋がっている、というのは、lainが玲音と繋がっていること、玲音がlainを手足のように使役できることでしょうか。とりあえずの理解はこんな感じでいいでしょう。

 

本当の私はいない、私は私を知っている人の中だけにいる
 「本当の私」とは玲音のことです。文章全体は英利の思想を意味します。具体的には前記事で引用した12話の玲音の発言を見るわかりやすいです。


またわからなくなる
 説明の都合で最後に回しました。「またわからなくなる」ということは、ある地点でわからなくて、それが一回わかって、それがさらに「またわからなくなる」ということです。ただでさえよくわからない作品なので、こういう考えればわかりそうなところはきちんと詰めていくべきでしょう。

  • わかった
     12話冒頭で彼女は「わかった」と言っています。

    「なあんだ、そうだったんだ。世界なんてこんなに簡単なものだったの。あたし全然知らなかった。あたしにとって世界は、ただ怖くって、ただ広くって……、でもわかっちゃったら、何だかとっても楽……」(12話)

     


     その後の場面で、玲音はありすに「みんなのきおくなんてただのきろく」とメールを送り、その後、13話冒頭と同じ演出で、「人は、人の記憶の中でしか……」と語りかけます。彼女が「わかった」内容はこのあたりでしょう。
  •  わからなかった
    とすると、わかる前は、この場面の前あたりでしょう。具体的に指摘するのは難しいですが、とくに誤解なく理解していただけると思います。そのとき、彼女は「あたしにとって世界は、ただ怖くって、ただ広くって……」と思っていたことも指摘しておきます。
  •  またわからなくなった
     同じく、12話に、「わかんないのは、あなたのこと、神様」とあります。これが直接的に指示しているのは、英利に「権利」を与えたのは誰かということです。この「わからない」はその直前にありすの行動の影響を受けての言葉であることも指摘しておきます。

もちろん、これらがそのまま13話で彼女が「わからない」といっていることの内容ということにはなりません。私がやったのは単に作中で彼女が「わからない」といっている箇所を持ってきただけであって、これが13話で直接問われている「わからない」だとするのは飛躍です。が、常識的に考えればこの問や、このような問を発せざるを得なかった彼女の感情が、13話の問につながっていくことは期待できるでしょう。


 こういうふうに考えることもできます。最初に、「また」のところで分析したように、私達が扱わなければならないのは、「12話で何が言われたか」ではなく「13話冒頭では12話では何が問題になっていたことになったのか」です。13話冒頭で彼女がわからないと言っているのは、「わたしがこちらとあちらのどっちにいるか」なので、今挙げたような彼女の「わからなかったこと」は、最終的に「こちら側とそちら側のどっちにいるか」という問に回収され、この問いによって適切に表現されるようになったと考えることもできます。


 さて、問の方の分析はだいたいこんな感じになりました。
 ミクロに見すぎたので、少しマクロに、大雑把に捉えてみましょう。結局問われているのは何でしょうか。「私は何か?」と「私はどこにいるか?」です。では、この2つの問に答えればいいのでしょうか? 実はもう少しだけ複雑です。そのために、まずどんな答えが得られたのかも分析してしまいましょう。

 

答えの予備分析

「私はここにいるの。だから一緒にいるんだよ。ずっと・・・」(13話)

 問に対する答えは前半部分だと考えていいでしょう。「だから」で結ばれた後半部分は、解答から玲音が下した決断です。先程、この問と解答が『lain』で最も重要なメッセージだと言いましたが、少し訂正する必要がありそうです。『lain』で最も重要なメッセージは、この後半部だと考えるべきでしょう。とはいえ、この問題を解かなければならないことには変わらないので、依然として考察の方向性は変わりません。


 さて、得られた答えは「私はここにいる」です。聞かれたのは、「私はどこにいるか」と「私は何か」です。すると答えが1つ足りません。これはどういうことでしょうか?

 

(補足
私が誰か? に対する答えが、私は一緒にいる、だと考えることもできます。とするとここから下の議論の見た目は大きく変わりますが、このへんは簡単な表層の解釈問題なので見た目ほど大きく結論が変わることはありません。何にせよ、「だから」という接続詞で結ばれている以上、「どこにいるか」に答えるのが最優先でしょう)

 

 鋭い方なら、問題に対する対処は何も解決だけではないと考えるかもしれません。問は、解決するだけでなく解消することも可能です。解消するとは、問題のよって立つ基盤、その問題を発する意味そのものが探求の過程で消えてしまったということです。「何か」の問題は解消されたのでしょうか?

 この考え方はそこまで悪くないと思いますが、私は別の解釈をしたいと思います。間違いは私達が、問題が2つあると思ってしまったことにあります。実は、『lain』という作品においては、この、「何か」と「どこにいるか」という問題は全く同じもので、区別されないのです。

 一番はっきりわかる場面は13話後半の玲音とレインの会話です。

れいん「じゃあ、貴方は何なのよ。玲音」
玲音「私、私は……私はどこにいるの?」
(13話)

 この場面の玲音の台詞は、れいんの発言を繰り返したものだと考えて良さそうですが、れいんの「何か」という問いを、玲音は「どこにいるか」としています。


 他にも、英利の言う神様の定義もそのようなものでした。定義とはそれが何であるかを示したものですが、英利はその答えを普遍として存在すること、つまり、どこにでもいることだと見なし、存在する「場所」という観点で「何であるか」ということに答えます。

 以上見たように、本作においては、私達の日常の用法からすると多少の違和感はありますが、基本的に本作では、「何であるか」と「どこにいるか」は同じことを意味します。より正確に言うなら、本作において、「何であるか」を根源的に規定しているのは「それがどこにあるか」だということになります。

 もちろん、場所を聞いているからと言って、それがどこでもいい場所なわけではありません。問にはそれが開かれている地平があります。この場合は、先に見たように、「ここ」と「そこ」という言葉で観念されるような「場所」概念に対して開かれているわけです。
 
((似非)哲学的に見ると、玲音の疑問は、実存とは何かという大問題なのですが、本作はこの実存的な問題を最終的には場所論的な設定に落とし込んで解決するということです。実存的な問題に決定的な解を与えることは非常に難しいことを考えると、個人的にはこの製作者の判断は英断だと思っています)

 

 これで、問とその答えについては一通りの見通しをつけることができました。さっさと「こちら」と「あちら」を定義してしまえばここで考察を終わらせることもできます。もうこれ以上この問題に対するヒントが無いんだったらそうせざるを得ません。しかし、まだできることは残っています。


 13話は問題と解答に挟まれたサンドイッチ構造をしているということでした。となれば、問題と解答の間の部分、13話の本編こそ、玲音がその問題をどのように解いたかというプロセスに相当すると考えて良さそうです。このプロセスを細かく分析していけば、私たちはこの問題と解答に対してより近づいていくことができそうです。

 

 

 予想外に長くなったので、記事を分けます。


 次回は13話の本編の幾つかのシーンを見ていき、最終的に「玲音」が何に出会ったのかを特定した上で、そもそも玲音にとって本当に問題だったのは何なのか? ということについても考えていきます。その作業をもってして、この『lain』という作品の考察に対して、(上で述べたような意味での)「一段落」をつけられると思います。

 

 

 

追記:改めて見てみたら、13話で「どこにもいないんだったらあたしは誰?」って言ってました。なので、実質的には問は1つだったという上で述べた考えは修正が必要で、やはり2つの問を両方並列で扱うのがいいような気がします。